並河 研GMブログ“日本から世界へ”

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2012年08月02日

三連覇に向けて

今年度の選手、スタッフの協会への登録が終了しました。

いよいよ秋シーズンに向かって、三連覇に向かってスタートです。

 

今年の春は、ドイツ遠征を敢行し、パールボウルの決勝にも進出、そして勝利と、

チームにとっても良い経験を積むことができました。

特に、日本代表でも長らく活躍してくれた#75OL・宮本士選手が抜けたあとを

“ヤング・ツイスターズ”が埋めるべく奮起したり、

#7WR池井選手、#34DB丸山選手、#33DB島津選手、#54DL冨田選手などの

新人選手たちも秋に向けて期待が持てるプレイをしてくれました。

 

とはいえ、戦力の補強、強化は他のチームでも優先課題として取り組んでいらっしゃいます。

ましてや強豪ぞろいのXリーグの各チームは

”STOP THE OBIC”を掲げて、より一層、周到な準備で、厳しい戦いを挑んでくることは必至です。

 

自分に対してどこまで挑戦しきれるか。挑戦することにハングリーでいられるか。

大橋ヘッドコーチが常に言うところの”足掻き(あがき)”が、今年も私たちの行先を決めることでしょう。

ファンの皆様には、そこのところを期待していただき、同時に厳しく叱咤激励を頂戴したいと思います。

 

さて、私事になりますが、この7月末日、つまり、2011年度登録を持ちまして、

チームGMを辞任させていただくことになりました。

今まで、サイドラインで声をかけていただいたり、

時には、Tシャツやバッグに私までがサインをさせていただいたり、

選手同様ご贔屓にしていただき、誠にありがとうございました。

 

そして何よりも、

パナソニックに負け続けたつらい時代から、何とか勝つことが出来て日本一をとれた一昨年、

そして震災の後からシーズンが始まった昨年、今年のドイツ遠征など、

このオービックでしか味わえない経験、ファンの皆さんや選手とともに戦えた時間、

GMとしては本当に幸せでございました。

 

ファンの皆さま、支えてくださっている皆さま、そして熱い心を持つ選手、スタッフ、コーチの皆さんに、

改めて御礼を申し上げます。

 

ありがとうございました。

 

今後は、昨年度より再開させていただきました、社会人協会での活動に注力し、

Xリーグ、社会人フットボールの振興、普及、発展に微力ながら、尽くしていきたいと思います。

 

特に東日本は、現在、川崎球場が改装中になったりしておりまして、

ハード、ソフト両面において、

ファンの皆さま、関係者の皆さまの「満足向上」=Xリーグの価値向上が大きな課題です。

 

2015年のワールドカップを控えての強化もしっかりとやらなければなりません。

 

そしてその先にある、日本のアメリカンフットボールの将来構想をしっかりと立てて、

それを見据えた活動を、地道かつ効果的に積み上げていくことで持続的発展を実現しなければいけません。

 

想いは膨らみますが、現実は厳しいでしょう。

 

オリンピック競技でもない、プロでもない。

時には、勝てば勝つほど自分の職場に迷惑をかけなければいけない、アマチュアの宿命。

 

そんな中、熱くフットボールに打ち込んでくれている選手の皆さんや、それを支える多くのスタッフの皆さん、

さらにそのチームを心底支えてくださっているファンの皆さん、支援者の皆さんにとって、

 

「アメリカンフットボールで良かった…」

と少しでも思ってもらえる競技、リーグを目指して、頑張る所存です。

 

最後になりましたが、今後とも、オービックシーガルズをなにとぞよろしくお願いいたします。

 

ありがとうございました。

 

2012年02月01日

変わらないために 変わる

 

一昨日、千葉青年会議所の新年例会に出席させていただいた。

青年会議所は、入会資格が20歳~40歳なので、

オービックシーガルズは、 正会員ではなく賛助会員という形式で、

一昨年から入会させていただき、 地域での活動でお世話になっている。

 

千葉ロッテマリーンズ、JEFユナイテッド千葉、

読売新聞千葉支局、東京新聞千葉支局、日本経済新聞千葉支局

千葉テレビから参加された先輩の皆さんと同じ席で

 

JCの皆さんや熊谷千葉市長の年頭のご挨拶を拝聴した。

今年のJCの基本理念は、

 

「変わらないために 変わる」。

 

これは、イノベーションの本質を突いていると思う。

 

アメリカンフットボールでも、

勝ち続けるという 「変わらない価値」を保つためには、

戦略を含めて 常にチームを進化、変化させていかなくてはならない。

 

これが、難しい。

 

成功体験が邪魔をする。

“お家芸”まで高めたプレイや 技術がある場合、

それを捨てるのには勇気がいる。

選手間にも温度差がある。

変わらなくて良い選手もいるし、変わらなければならない選手もいる。

 

どこまで変わるのかという 共通認識を創るのもまた難しい。

 

アメフトに限らずどのスポーツでも「常勝」が難しいのはそこのところだ。

 

一方で、 勝てなかったチームは、

勝ったチームを徹底的にベンチマークする。

追いかけるチームは、まだ見ぬ世界のために

どんどん変わる。 

 

そのような中、私たちは、

三度(みたび)チャレンジャーとなって、

日本一に挑む。

 

VISION、そしてV3。

2012年シーズンは、Vを四つ重ねるぐらいの

語気で挑まなくてはいけない。 

 

今週から、千葉ロッテも、JEFもキャンプインだと聞いた。

 

私たちも、2月4日から、自主トレーニングをスタート。

 

V4への道の始まりだ。

 

2012年01月25日

アメフトハイシーズン

いよいよ本場NFLも大詰め。

毎年この時期は、

試合結果を聞かせないでくれ…。という言葉が飛び交う。

アメフト好きにはドキドキワクワクな月曜日だ。

 

一方で、

私たちが出場したライスボウルは、まだ1ヵ月も経っていないのに、

もうずっと前のことのように思える。

彼の国での盛り上がりはもちろん、

ビジネス規模、関係者の処遇など全て、

日本一と世界一がこれほどまでに距離がある競技もまた珍しい。

仰ぎ見ることもできない頂のように、今は見える。

 

一方で、アメリカのメジャーリーグ(MLB)と日本のプロ野球。

実は20年前は、どちらも同じ市場規模で、1000億円程度であった。

それがこの20年間の間に、

MLBは6000億を超える市場を創造してしまった。

日本のプロ野球は、ほぼ同じ規模、横ばいである。

 

野茂選手が日本のプロ野球からアメリカにわたって活躍した頃は、

「トルネード!」「SAMURAI」など、

ファンからの言葉は、ストレートな表現が多かったが、

今回のダルビッシュの移籍では、

「彼は、もう少し契約金が多くて良かったのでは」

「投資効果としては十分期待できる。楽しみだ」というGMのような発言が

ファンから飛び出してくる。

 

20年間で、MLBはビジネス、産業として成長し、

同時にファン(ステイクホルダー)も育ったのだ。

 

2012年の日本、そしてアメフト。

これからの10年、20年をどう創っていけるか。

今は、仰ぎみても見えない頂に少しでも近づけるか。

私たちが問われている。

 

2012年01月08日

厳粛にうけとめ、精進したい

1月3日のライスボウル。

前半は重苦しい展開であったが、後半に逆転し何とか勝つことができた。

 

JXBの富士通もかなり強かったが、関西学院大学も良く鍛えられていて、

思い切りの良さもあり、学生の怖さを改めて実感した。

 

ゲームが進むにつれて、オービック側の負傷者が増え、

そのためのインジュアリータイムアウト(負傷者のためのタイムアウト)

の時間が長く試合のテンポが悪くなってしまったこと、

 

終盤におきた2件のアンスポーツマンライクコンタクト

(スポーツマンらしくない行動、発言)によるパーソナルファウルについては、

多くの方々から、厳しいご指摘、ご意見を頂戴した。

 

7日にライスボウル後、初めてのチームミーティングを茜浜のグラウンドで行ったが、

その場で私はそのことに触れた。

 

自分がアメリカンフットボールを始めようと思った時、

偉大な選手の凄いプレイに憧れた時、学生時代の初心、を思い出してほしい。

その初心や初志に戻ってみて、恥ずかしくないプレイをやってほしい。

ということを述べた。

 

また、インジュアリータイムについては、

自分たちチーム、選手の普段の心がけはもとより、

審判や、協会などの運営側の方々も巻き込んで、

視聴者やファンからの視点も含めた「改善」に取り組んできたいとも述べた。

 

せっかくの大舞台、日本一を決める試合のクオリティ。

 

主役はもちろん選手であるが、

ファンの皆さまはもちろん、

日本中のアメリカンフットボール関係者が大切に育ててきたステージ。

 

これからまた新しい1年、シーズンが始まるが、

いろいろな意味で、成長していくチームとして、 1つ1つ積み上げていきたいと思う。

 

余談ではあるが、ライスボウルの表彰式後、

優勝カップ、トロフィーを持って、

観客席最前線に降りてきてくれた子どもたちに触れてもらった。

「おぉー」とか「重い~」とか言いながら笑顔で触れてくれた。

 

「次は、君たちがライスボウルに出て、これを獲るんだよ」と私は言い続けた。

 

スポーツは未来のためにある。

 

2011年12月31日

ライスボウルに向けて

今年1年は、本当に慌しく過ぎてしまいました。
想えば昨年の今頃も、グラウンドに居て、ライルボウル優勝を
目指して皆で練習をしていました。
ライスボウルで5年ぶりの優勝を遂げたあとは、
つかの間のオフシーズン、そして震災によるグラウンドの液状化、
日本全体が甚大な被害を受け、電力不足の中での
春季交流戦。そこまでまとまな練習もできず、
グラウンドを貸してくださった、神田外語大学、
千葉大学、早稲田大学、日本大学、そして習志野市企業局の皆さまの
厚意がなければ、今年のオービックシーガルズは、スタートできませんでした。
また、春先の波崎の合宿、習志野・千葉での募金活動や、
土砂撤去などの活動でも多くの方々と出会い、
私たちは、大きなパワーをいただきました。
その流れの中で、春季交流戦の場に立てたことは大きな感慨を
覚えました。

その後、第4回のワールドカップがあり、日本は惜しくも3位。
オービックシーガルズからは、13名という大量の選手を
選んでいただきましたが、皆それぞれ、欧州の高まり、カナダ、アメリカの
背中の遠さを実感して帰国してきました。

7月のワールドカップ後、
震災で液状化したグラウンドが復旧し、
夏合宿からようやく、文字通り地に足をつけた
チーム練習を始めることができました。
施工していただいた日本道路様、マルソル様にも
本当に感謝しております。ありがとうございました。


9月からのリーグ戦は、本当にあっという間で、
チームは、選手を主役になんとかここまで勝ち上がってきました。
初戦のノジマ戦を凌ぎ切ったこと、
休日昼間に開催できたQVCマリンフィールドでのIBM戦、
長居陸上でのアサヒ飲料戦、
準決勝の鹿島戦、決勝の富士通戦、社会人の強豪相手に、
スタンドに参戦していただいたファンの皆様の力は、
本当に素晴らしかったです。特に決勝の富士通戦の
両チームのスタンドの「声」「音」が加わった闘いは、
「これぞアメリカンフットボール!」という気がしました。

一緒に戦った各チームの仲間たちのフットボールへの想い、
勝利への執念、ファンの皆さまの期待を背負って、
年末に茜浜のグラウンドで練習できる喜びを勝利に。

私たちは、あと4日間足掻き続けます。

2011年09月09日

嗚呼、開幕戦。

開幕戦の3日前、習志野のグラウンドで
チーム関係者でキックオフを行った。

今年は、ワールドカップへの参加など
何かと変則的なスケジュールなこともあって
平日の夜に都内に集まるよりも、
日曜の練習後、習志野のグラウンドで
ブースタークラブや応援団の方々を招いて、
みんなで日本一に向けて発進&発信しようという
試みであった。
結果的には、残念ながら台風12号の影響で
公開キックオフとまではいかなかったが。

キックオフの最初は、
野田オーナーからのメッセージビデオ。

「信汗不乱。汗を一杯流して、流した汗を信じれば
 心は乱れない。その心で是非二連覇に向けて
 精進してほしい」という言葉。

7日の試合は「信汗不乱」とは、
ほど遠いものであった。

オンワードの撤退からチーム一丸で見事Xに復帰してきた
ノジマ相模原ライズのしっかりしたチームづくりに対して、
当方は、あまりにも綻びが多く目立つ試合展開となった。

汗を流して来なかったわけではないが、
流した量や流し方が足りなかったと言わざるを得ない。
チームの方は、
辛勝できたことを大きな機会と捉えて、
次の試合、いや、次の練習に臨みたい。

そして実は、
綻びはフィールド上だけではなかった。

ここしばらくの期間、
裏方、スタッフサイドでも小さなミスが相次いだ。
いや決して「小さな」ことではない。
試合当日のイベントでも、大きな手違いがあった。
チーム全体の責任者として、
ここ2日間は、非常に反省した次第である。

ミス、トラブル…。いわゆるヒューマンエラーでは、
1つの重大なミスのカゲに、
30のヒヤリ!とするような瞬間、
そしてそのカゲには、300のハッ!とする瞬間が
あると言う。

いわゆるヒヤリハットの法則である。
1つのミスをなくすためには、日常から300のハッとする
瞬間をきちんと反省し、なくしていくことが唯一の手段。

チームも、スタッフもしばらくは一丸となって、
300の「ハッと!」をなくしていかなくてはいけない。
野田オーナーがおっしゃった「汗」には、
冷や汗もあったという事である。
ただし冷や汗の場合は、
流すだけではなく、
無くしていかないといけないということは大きく違うが。

2011年07月10日

ヨーロッパの本気度の高まり

昨夜は、第2Q途中からだったが、

日本代表チームとオーストリアの試合をライブストリーミングで

途切れ途切れに追いかけた。

同時に、日本のアメフト復興会議のオンライン観戦を開いて

なんとか戦況を捕まえながらであったが、

藤本選手のインターセプト、

古谷選手のしぶとい真ん中のラン

(末吉選手も丸田選手も日本のランニングバックは健闘していた)、

木下選手のロングパスキャッチなど、

ところどころ良いプレイがあったが、

なかなかオーストリアディフェンスは重厚で、

ここ数年のヨーロッパ勢の進化というか、“本気度”が見て取れた。

 

メキシコも第4Qでドイツに逆転勝ちだったという。

 

今回の世界選手権のフォーマットは、

2週間の間に、8ヶ国が、リーグ戦と順位決定戦を行うという、

非常にタイトなスケジュール。

この条件は各国ともに平等…ではあるが、

体格に劣る日本にとっては、若さで行くか、

4年かけてチームを作ってきたチームワークでいくか、

悩みが多かったのではないかと思う。

 

とはいえ、大会は始まった。

重厚なオーストリアに24-6で勝利した次は、フランス。

そして自国のプロリーグ経験者を多くそろえたカナダ、

と日本代表の戦いは続く。

「あと2勝して、決勝でアメリカと」。

日本代表チームは、必死に戦いぬくだろう。

 

選手やコーチの必死の現場とは違う視点で、

ヨーロッパの進化=本気度の高まりを、

この2週間を通じて日本協会がどのように受け止めてくるかも、

大きなテーマである。

 

2011年05月08日

ここからの始まり

5月7日、川崎球場においてようやく今年の緒戦を迎えることができた。

 

3月11日に地震の揺れがおさまった時に最初に思ったのは、

“やぐらは倒れなかっただろうか””クラブハウスの中で損壊はなかったか”だった。

すぐに冨樫マネジャーに電話したが、実態は、予想だにしなかった

グラウンドの液状化による損壊であった。

 

後に調べたところによると、地震による液状化が大きな問題になったのは、

1964年の新潟地震だったようだ。

50年近く前から、問題は顕在化していたのだ。

今さらながら、活動拠点を海から100メートルにも満たない埋め立て地に

選んだ浅慮と不勉強を悔やむ。

そのことで、オービックシーガルズの選手たちは言うに及ばず、

JEFの皆さんやジュニアシーガルズの皆さんに迷惑をかけてしまった。

この場を借りて、改めてすみませんでした。

8月には、何とか復旧すべく全力を挙げております。

もうしばらくの不便をなにとぞご容赦ください。

 

また、それ以上に、千葉大学や早稲田大学、川崎球場、アサヒビールシルバースター、

習志野市の皆さんには、練習場所の提供や手配で大きな協力をいただいた。

GULLS FOR TOHOKUと名乗って義捐活動しながら、同時に助けていただいた。

そのおかげで迎えられた緒戦である。

改めて御礼申し上げます。ありがとうございました。

仲間の温かさをチーム全員が感じた次第です。

 

さて、「2011年の決意」にも書かせていただいたが、今年は、志そのものが問われる年。

大震災後という節目の年には、尋常ではない「想像力」と「創造力」、「構想力」が問われる。

いまこの「地」で何が起きているか。

これからどのようなことが起きるか。

想い、イマジネーションすること。

今までの旧弊、常識を捨て、自ら「傷=創」を追う覚悟で新しいものを創りだすこと。

可能な限り多くの方々と一緒に、大きな構えで未来を構想すること。

そしてこれらを毎日、毎時間、毎秒、倦むことなく続ける。

それが、+0.01。

ココロと行動が問われる年の始まりである。

 

試合を見ていただいた限り、オフェンスは、まだ始まっていない。

ディフェンスも、縫い目に綻びがある。

キッキングもミスがあったし、ボールをきちんと蹴ることも叶わない。

フィールドで起きることは全てチーム全員の責任である。

昨日のフィールドに、責任を感じて動けた人間が果たしてどれだけいただろうか。

春の試合は、得点よりも一つひとつの行動やプレイの基盤が大事。

ココロを行動に移すためには、ココロもカラダも技術も鍛錬がまだまだ足りない。

コーチ陣にもイマジネーションが不足している。

果たして選手自身、ワクワクして試合に臨んでくれただろうか。

大きな問いが残った。

 

この状態からどう巻き返していくか。

幸い、私たちにやれることはたくさんある。時間もある。仲間もいる。

大きな挑戦である。

 

2011年03月22日

袖ヶ浦4丁目にシャベルチームで訪問。

20日、習志野市の袖ヶ浦4丁目の土砂撤去のボランティアに参加した。

国道より陸側に100Mぐらい入ったこの地域は、

 

一見した感じでは、異常ないように見えるが、
住宅に近づくと、地震&液状化の影響で、塀が壊れ、側溝が
壊れ、土砂が噴き出している。

 

習志野市と、住民の皆さんだけで復旧しなければいけないだけに、
なかなか大変なことだと改めて感じた。


4丁目に向かったのは、オービックシーガルズの10名と
一般の方々合わせて約20名。
合計3時間半ぐらい、
一輪車、リアカーを引きながら、シャベルを持って、
活動させていただいた。

 

運んでも運んでも土砂は尽きない。ラインメンは大活躍した次第だが、

 

側溝が壊れたままの場所、埋もれてしまった場所が
まだ残っていたが、残念ながら活動時間が終わり、

 

心残りながらボランティア活動終了。

 

関係者の皆さん、大変お世話になりました。

 

普段、休日はアメリカンフットボールをやっている私たちには、
貴重な体験であったとしみじっみ思った。

 

今後、今なお臨戦状態の遠くの被災地に向けては、
1.01の想いでそれぞれの職場、企業で、経済を元気に回し、
チームとしては、義捐金集め、生活物資集めで協力し、
地元の復旧には、
可能な限り、選手、スタッフが駆けつける
という方針でいこうと思う。

 

今回活動した袖ヶ浦4丁目はもちろんのこと、
郊外の住宅地は、高齢化している。
災害の時に“自宅難民”になる可能性も高い。

 

オービックシーガルズが
地域活動を進めていく中で、そういう根本的なことを
学んでいかなくてはと、改めて思った。

 

さらに、自分は今年50歳であるが、まだまだ若い部類でなければ
ならないと、痛感した次第である。

 

2011年03月16日

青葉の国を想う

東北出身の市川選手を始めとした選手諸君の強い気持ち

それに応えたい大橋ヘッドコーチの大きい気持ちがカタチとなり、

 

遅まきながら、オービックシーガルズの義援金口座を開設しました。

 

この口座がより生きたものになるよう、チーム一同、

頑張っていきたいと思います。

 

東北道を下って、濃い緑の中を福島や仙台に

家族で車で出かけたことがありました。

オートキャンプ地から地元の祭りに出かけたりして、

皆さんの優しさに触れたことを思い出します。

 

テレビをつけたら

その優しい人たちがそのままの顔で、

泣いている。悲しさに耐えている。

 

日本人の故郷、東北。

青葉の国。

 

この国に再び人々の優しい笑顔が戻り、

健やかな営みが戻ることを

心より祈り、願い、

私たちの小さな力、想いを届けたいと思います。

 

都内も、放射能などで騒然としており、

たった今も東京電力をはじめ多くの方々が

復旧に命を削っておられます。

 

私たちにできることは、ほんの少ししかありませんが、

自分にできること=1

それに加えて、1%。

つまり、1.01をみんな積み上げていきたいと思います。

 

青葉の国を想う力で。

 

2011年03月12日

東北地方太平洋沖地震

おはようございます。

昨日から、東日本・東北地方で地震が群発し、

ある意味未曾有の状況が起こっています。

被災地の皆様のご無事を心よりお祈りいたします。

 

オービックシーガルズは、

現在部員の安否を確認しております。

 

2011年度シーズンインとしておりました、

今週末の練習は休止といたしました。

 

引き続き皆様のご無事をお祈りします。

また、災害後の様々な復旧でも、しばらくは大変なことにになるかと

思いますが、助け合って乗り切っていきましょう。

 

Xリーグ全体でも、東京ガスや東京電力のインフラ関係、

鹿島やパナソニック電工などの建築関係の皆さんの中には、

選手やスタッフの 方が現場に張り付いたり、本部で待機したりと

しばらくは大変だと思います。

助け合って乗り切っていきましょう。

 

2011年01月12日

QUEST

ライスボウルに出場すると、
グラウンドでフットボールという幸せな年末年始を過ごすこととなる。


3日の試合が終わって初めて「あけましておめでとう」という、
晴れがましい気持ちになる。勝てた場合は尚更である。

 

今年の正月は、2006年にV3を遂げて以来の、
5年間分の”明けましておめでとう”という感じであった。
これまでの時間を長さを改めて実感する。

 

先週末のグラウンドでの2010年度最終全体ミーティングで


「私がこのチームに来たのが1993年。その3年後の1996年に
 1回目の優勝、2年後の1998年に2回目、4年後の2002年に
 優勝を逃したもののライスボウル出場、次は2005年。
 今回はその2005年から5年かかるという一番長い時間だった」
と吉永ヘッドトレーナーが振り返っていた。

 

5年かかったのか、5年かけざるを得なかったのか。

 

特に、ここ3年間は、2007年のワールドカップ、

その後のノートルダムジャパンボウルなど

本場アメリカの力を目の当たりにして日本の強化を強く思った。
(とはいえ決して頂点のチームではないが)

 

チームとしても、
日本から世界へと続くプロ意識を持った選手を育てること、
フランチャイズを千葉・習志野に定めて、
地域、コミュニティの様々な方々に試合に来て応援して
いただくことを大きなテーマとしてやってきた。

 

クラブチームという環境の中で、

そのことに挑んだわけだが、今年は一里塚を超えたように思う。


開幕戦の千葉マリンスタジアムに集まっていただいた2,700人のお客様、
そこから始まったリーグ戦。

 

今までのファンの皆様に加えて、
千葉から、習志野から
子どもたちが選手の名前を書いたボードを掲げて、
オービックの大阪本社や東京本社の会議室の
ルール説明会にも毎回大勢の社員の方々が駆けつけ、
スタンドでの声援の核になっていただいた。

 

特に2NDステージ以降のスタンドの応援はすさまじく、
3RDダウンに聞こえてくる大声援は、
本当に選手の背中を押していただき、優勝への
階段を登るチカラとなった。

 

まさしく12人目の選手が参戦し、皆で勝ち取った日本一。

 

ライスボウル終了後の勝利者インタビューで、
「皆さんおめでとうございます」と大橋ヘッドコーチが
開口一番の挨拶をしたのは、
正直なところ、チーム全員の気持ちである。


選手たちも、
プロ意識を持って一つの階段を上ってくれたように思う。


「毎回の練習で、チャンピオンシッププレイヤーを選びます。
 チャンピオンシッププレイヤーとは、明日ライスボウルだったら、
 絶対に試合に出場してもらいたい選手のことです」と大橋ヘッドコーチが
夏の練習から始めた新しい試み。

これも選手たちとのミーティングで生まれた。
ちなみに、

ライスボウル当日のチャンピオンシッププレイヤーは31人までになった。

 

以前、雑誌『ナンバー』で特集されたスポーツの箴言集の中に、
どこかのプロ野球チームの監督さんの言葉があった。
「アマチュアは、チームがまとまったら勝つ。
 プロは、勝ったらチームがまとまる」


この“勝つ”を一人ひとりの勝負に置き換えれば、
一人ひとりが、自分の勝負に勝っていけばチームは勝ち、
そしてチームはまとまる。と言い換えることができる。

 

多様性。

様々な環境の中で普段は全然違う生活や課題を背負っている選手たちが、
アメリカンフットボールで日本一になるというただ一点の共通点のために
週末にグラウウンドに集まってくる。


平日はメールを発信し、ジムに通い、
あるいは誘い合って習志野グラウンドに集まったり、
皇居の片隅に集まったりして、

一人ひとりの勝ちから積み上げていく。

 

「今年のディフェンスは、自分が考えるディフェンスを押し付けるのではなく、
 一人ひとりがどうやったらのびのび活躍できるかを考えたディフェンスを
 創り上げた」とデイフェンスコーディネイターを兼ねた大橋ヘッドコーチ。

 

選手が主役でワクワクするフットボール。


傍目では「ハラハラ」も多かったが。

確かに、選手が輝いた一年。輝かせた人たちが選手たちと一緒に光った一年。

 

とはいえ、

登録メンバー全員がチャンピオンシッププレイヤーになったわけではない。

ちょうど半分だ。
ライスボウルに出場して活躍した選手でさえ、まだまだ不十分なので
2011年度も頑張りますと、追求を続ける。

 

まさにQUEST(追求)だ。

 

2010年度は、終わろう。
ただ決して粗末にするのではなく、これまでの歩みを大切にして
次に進む。

 

さらに追求する、QUESTの旅。
「その先」にまだまだワクワクがある。

 

2011年01月03日

勇気×元気

ライスボウル当日の朝を迎えた。
お正月は、サッカー天皇杯、高校サッカー&ラグビーに加えて
大学ラグビーと日本選手権が続く。
フットボールの頂点の季節でもある。


アメリカでも、元旦から様々なボウルゲームが開催され、
朝から夜まで全米がアメリカンフットボールの中継に
釘づけとなる。

 

寒い冬から体作り、チーム作りをはじめ、
春の試行錯誤、土台固め、
夏の鍛錬、秋から始まる戦いを潜り抜け
凌いできたチームが1年間の総決算として、
日本選手権、ボウルゲームに出場する。

 

アメリカでは、それを祝祭としてとらえて、
ボウルゲームには、その地方の特産物・名産物の冠が
つけられ、その地方全体を巻き込んだフェスティバルとなる。
ローズボウル、オレンジボウル、コットンボウル、シュガーボウル、
などなど。

 

日本では、ライスボウルとなり、今年で64回を迎える。
もともとは、東西学生のオールスターゲームであったが、
奇しくもオービックシーガルズが活動を始めた
1984年から学生の日本一と社会人の日本一が争う日本選手権となった。

過去27回で社会人が15勝とかろうじて勝ち越しているが、
学生がリードしてきた日本のアメリカンフットボール界では、
まだまだ学生の地力が強い。


私たちも一生懸命準備をしたが、挑戦者として最初から最後まで
集中しないと今日は勝利できないであろう。

 

学生日本一となった立命館大学は、
関西学生リーグで昨年の覇者関西大に敗れながらも、粘り強くプレーオフに
持ち込み、二度目には関西大を下して駒を進めてきた、成長曲線の高いチーム。

 

今日の戦いは、

総合力としての強豪立命館大学&スタッフに加えた

学生選手の元気、スピードに対して、

オービックは、倍以上の元気、スピード、そして、
学生チームに対してそれをやりきる勇気が必要だと思う。


しかも、立命館大学を上回るためには、

元気、スピードにも質の違いが必須であろう。

 

いずれにしても、ボウルゲーム。
日本のアメリカンフットボールの最終戦として、
ファンの皆様や関係者、何よりも両チームにとって、
一番大きな実りを実感する試合としたい。

 

2010年10月31日

あすなろの想い

10月最後の日曜日の今日、

台風が去ったあともまだ曇天の習志野グラウンドで、
吹田戦に向けた本格的な練習を行った。


つい1週間前には、富士通との激闘をしていたことが
遠い過去のように思える。

 

今さらながら、富士通に勝つことが出来て良かったと思う。
もっというと、春から頑張ってきた選手たちに勝たせてやることが出来て

本当に良かった。


コーチ、スタッフ、そして雨の中ものすごいパワーを頂戴した
スタンドの応援団の皆さんに改めて感謝を申し上げたい。

また、何よりも、前半の劣勢を跳ね返した選手諸君に
称賛を贈りたい。

 

実は今年、シーズンインの9月頭に、
大橋ヘッドコーチ、古庄主将、そして副将のKJと4人で
鹿島神宮にお参りに行った。

 

いつもやらないことをやってみようと思ったのと、
知人の勧めでもあった祈祷であったが、
モノの本を読むと、

神様には、単なる「願い」は、通じないという。

 

私は、これこれこれだけのことをして、
かくかくしかじかに、臨みます。
かくなるうえは、その私に最大限のチカラをお授けください。

というのが“筋”らしい。

 

鹿島神宮での祈祷の際にも、
どのようなリーグのいつの試合で、どう勝つのか、
具体的に書いてください、と宮司さんがおっしゃっていた。

 

つまりは、お願いでも、お参りでもなく、
神様の前で、私たち4人は、誓ってきたのである。

 

西洋の神様も神は自ら助くるものを助く。と言う。
東西違ってもそこは、同じであった。

 

話は少し違うが、
あすなろの木というのがある。
漢字で「翌檜」と書き、檜(ひのき)に似た木であるが、
檜のように大きくはなれず、いつも「明日は檜になろう」と思っているという。


井上靖氏が書かれた『あすなろ物語』の題材にもなった。

 

明日は必ず檜になろうと、頑張る。そのまっすぐな心、本気な心が
あすなろの想いである。物語の話は置いといて、

 

チームを率いて27年になるが、私たちのチームには、
あすなろの想いが常にあるように思う。

 

1996年度の初優勝の時も50人そこそこで戦ったし、

その中には、多数の二部校出身者が居た。

2005年度のシンデレラQBは、練習生から頭角を現した

#15龍村選手であった。

 

絶対ヒノキになってやる!という想いで頑張る

あすなろの木がヒノキになるチームでありたい。

切ない想いかもしれないが、そこは大切にしてきた

チームでもある。

 

このリーグ戦の5試合でも、印象に残っているのは、
そういう切ない思いで、ひたすら練習に取り組み、
結果を出してきた選手たち。

 

例えば、通称ガンバ、WR#28須賀将。160㎝の小柄な体で
入部5年間努力を続けてきた。彼は、先般の日本ユニシス戦で
入部して初めてタッチダウンパスを捕った。

彼は、プライベートでも苦労をした。

名前の通りガンバルマンだ。

 

2ndステージ以降は、1試合1試合どころか、
1プレイでチームの命運が決まる。
スペシャルプレイもあれば、ちょっとした勝負の綾が

勘所になる。 


1試合目の吹田には、過去に大勝しているが、
アメフトの場合、年が変わるとチームは全然変わる。

むしろ吹田のほうが「あすなろの想い」が強いチーム。

 

パナソニック、アサヒ飲料の二強豪と接戦を演じた地力は、

本物であろう。

IBMも、今年から新体制になり、捲土重来を期している。
このチームも今年こそと「あすなろの想い」が強い。

油断どころか、挑戦者でひたむきに対峙しなければ、

足元をすくわれる。

 

どーんと構えた鹿島、パナソニック、富士通、アサヒビールが居る

ブロックとは違う、あすなろブロック。

 

私たち一人ひとりの切なる想いがどれだけのものか、

そして、それをどれだけ成就させられるか、

どれだけ全員が、そのことに集中し、最後まで頑張りきれるかが、
勝敗を分ける。

 

今はまず、この2チームに勝つことだけを考えたい。

 

2010年09月22日

内面を磨くとき

ここにコップがあり、水が半分入っている。

 

もう半分なくなってしまったと捉えるか、
まだあと半分もあると考えるか。

 

何事もポジティブシンキングで捉えた方が、
良い結果になるという、有名なたとえ話である。

 

春から、たくさんの研鑽の日々を重ねて、
リーグ戦に突入し、2試合を終わったところで、
ライスボウルまであと、102日。
そのための最大の関門である、
富士通戦までは、あと31日。


全体練習でいうと試合も含めてあと、10回。
10回しかないと思うか10回も残されていると
考えるか。31日をすべて使って654時間と
して使うか。

 

これはまさにフットボール。

 

試合開始から、未来に対して残された時間を
どう使うか、という“使い方の戦略”が問われる。


もちろん、過去に学ぶということも必要であるが、
過去にとらわれすぎたり、ひきずられたりしては
相手の思うつぼなのである。

 

21日の試合では、
明治安田パイレーツが、

どんな状況でも第4ダウンでパントを蹴らず

捨て身で戦ってきた。
最初の第4ダウンを迎えたときに、

彼らは自陣深いところからであったにもかかわらず、

フェイクプレイでランを強行し成功させた。


その時からそれは始まったのである。

 

通常ではない、戦い方をしてくる相手。


難敵である。

相撲で言えば、がっぷり四つになれないカタチか。

 

それを何とか封じ込めて、前半を17-0で折り返した。

私はそこにチームの成長を感じる。

 

思い切りの良い走りをした#35ランニングバック山﨑選手、
マンツーマン守備を振り切って

タッチダウンまで持っていった#83清水選手、

しぶとい相手の走りに激しく対応した
#11KJ選手や、#92紀平選手、激しいタックルを見せた
#9塚田選手、#3滝澤選手…。

 

後半に入っても、明治安田の戦法は変わらず、
ついに、パスディフェンスのわずかな綻びを射抜かれて
タッチダウンパスを許す。


その後、第4Qに入って1つタッチダウンを積み上げて、

24-7で試合は終了。

 

「ピリッとしなかったね」
「もっと、点を取らなきゃ」
と感じた人も内外に多かったであろう。
選手自身も「この、2試合、なんか爆発できてない」
と思っている節もあるかもしれない。


私自身も、あれ、こんなはずでは……?
という思いが横切らなかったといっては嘘になる。

 

パナソニックや鹿島や富士通は、開幕から50点くらいの
大量得点で勝ち進んでいるから、なのか。
あるいは、自分たちは日本一を目指しているのだから
もっと強いはずだ……、なのか。

 

しかし、
この局面では、敢えて、結果にだけ目を向けるのは、
やめたいと思う。私たちは決して強くもない。
また、24点がダメで50点が良いという結果主義に
陥るのも良くない。

 

要は、一人ひとりの選手、一つひとつのプレイが
どのようなプロセスであったか、どのような挑戦をできたのか
というところに目を向けたい。


もっと言うと、どのような意図で一人ひとりの選手が
一つひとつのプレイをしたのか、していなかったのか。

 

内面に目を向けるべき時である。


例えば、
最初の#85萩山選手のパス補球後のランニングでの落球。


それがどのような意図を持ったプレイで、なぜ落球に至ったのか
そのプロセスと内面を掘り下げて、もう一度磨きなおすこと。

 

神は細部に宿る。

 

と有名な建築家の言葉にあるが。
その細部にこだわって、その細部から自分のプレイを
構築し、チームとしてのプレイに仕上げる。

 

1プレイ1プレイが居合抜きのような
「技」として完成してこそ、凄みが出てくる。

 

サイゼリアは、1つの定番メニューを最低1,000回は、
吟味しなおすと、以前テレビで特集されていた。
低価格でおいしいあの“いつもの味”は、

1,000回の鍛錬で磨かれていたのだ。

 

あと10回もある練習で、
内面を掘り下げ、凄みのある自分の定番技として磨く。

今がその時である。

 

ちなみに、オービックシーガルズが

最初に日本一をとった1996年度のリーグ戦の戦績は、

 

すかいらーく 19-9 〇

鹿島     20-26  ●

レナウン    29-22  〇

NEC     53-21 〇

オンワード  28-21  〇

 

と、大勝は、NEC戦のみ。

その時のチームの5つの言葉は、

FINISH IT

EXECUTION

DESIRE

EFFORT

ATTITUDE

の5つ。5つとも内面に起因する言葉であった。

 

2010年09月08日

二年目の絆

昨年に続き千葉マリンスタジアムでの開幕戦。


2週間にわたって海浜幕張駅前やベイタウン祭りで声を張り上げ
ちらしを手渡ししてくれた順天堂大学サッカー部の皆さん、


地元千葉大学と神田外語大学のアメフト部の皆さんは、

初めて観戦する方のためのルール解説役“がるなび”を
かって出てくれた。

 

その他にも、25日から始まる千葉国体のマスコットちーばくんを

始めとするスポーツ振興協会の方々、

JEFのジェフィくんとユニティくんとJEFの皆さん、

そしてご当地千葉マリンスタジアム、ロッテのかもめのまーくんと
チアリーダーのMスプラッシュの皆さん、


開幕戦に千葉まで遠征してきてくれたハリケーンズの皆さん、


何よりも、千葉から、東京から、駆けつけてくれた観客の皆さん、

実に多くの方々が集い、一つの空間を創っていただいた。
昨年は、1,500人であったが、今年は倍の約3,000人。


他のプロスポーツと比べると小さな積み上げであるが、
大きな二歩目である。

 

キックオフの時間が近づくにつれて
続々とスタンドに入ってこられる皆さんをお迎えして、
胸が詰まり、
試合後の選手たちのお見送りの挨拶で、子どもたちに
ずっと囲まれている選手を見たときに、絆を感じた。

 

一方で、

野球スタジアムの外野での観戦。

試合の状況や残り時間を示す電光掲示板がない、
入口が一つで、入退場に時間がかかる、
開店していただいた売店も少なかった。
バックスクリーンのゾーンを挟んで、
オービック側とハリケーンズ側になってしまうので、
オービック側に座れなかった方々は、

やむなくハリケーンズ側に行っていただくしか誘導できなかった…。


初めてアメフトを観戦する方は言うまでもなく、
「不」が多かったことも事実。


GMとして大いに反省し、今後への課題であると
認識している。

スポーツはエンターテインメント産業であるからだ。

順天堂大学の皆さんとは、

5,000人の動員を目標にしていたので、

仮に5,000人がいらっしゃったら

もっと大変なことになっていたであろう。

 

試合後、時間の許す限り子どもたちと交流してくれた
選手の中には、今日の始発で関西や名古屋に戻り、
朝から働いている選手がいる、
もちろん他の選手たちも、普通に勤務している。

 

昨日の空間を創っていただいた全ての方々の
「不」を解決していくことが、プロを目指す私たちの大きな責任である。

 

 

2010年07月03日

7月1日に刻むこと。

7月1日パールボウル。13-15で富士通に逆転負け。

 

オービック野田会長の

“私の履歴書”(日経新聞で6月1日~6月30日に連載)でも触れていただいたこと、
専門誌『タッチダウン』の7月発売号でも

オービックシーガルズのクラブチーム運営が記事になったこと、

何よりも、

シーズンインから「春の優勝」を意識して、ここまでチームの流れを作ってきただけに、

さすがにこたえた。

 

13-9で試合終了まであと数分というところまで粘ったので、

そこから逆転されたことはもちろん、
最後に1分12秒の時間と、3回のタイムアウトを残しての攻撃で、3点のFGを取れなかったことも
本当に悔しい。

 

同時にチームとしては大きな反省点が残る。


もっというと、13-9で勝てば良かったのか、というとそうでもない。

前半に相手のロングスナップのミスでゴール前で攻撃権を得た時や、

後半に紀平選手が相手のパスをカットして

そのままインターセプトした後に得点できなかったことを考えると、

20-9あるいは、23-9で勝たないといけない試合であったように痛切に想う。

 

この春から、選手たちに、よりプロフェッショナルな取り組みをしてもらおうと、

自覚とモチベーションアップの施策をいくつか行ってきた。

 

“選手が主役でワクワクするフットボールで勝ちきる”

という基本方針もその象徴であり、コーチ陣容も新しくした。

 

明日がもし、ライスボウルだったら、この選手達で戦うという“チャンピオンシップメンバー”
を毎週選んで貼りだしたり、

ちょっとしたご褒美(アイスクリームやサプリメント)がもらえるような冷蔵庫を設置するなど、
競争意識を醸成したりもした。

 

そして7月1日を迎えたわけであるが、選手たちは本当によくやってくれた。

この試合に集まってくれた1万4,000人のお客様も、

オービック、富士通双方の選手がどれほど頑張ったかは、

良くご理解していただいたのではないかと思う。

 

また、富士通スタンドから聞こえてくる扇子の音と、

オービックスタンドから聞こえてくる「オービック!」

という声の応援合戦には、正直震えた。

両軍のお客様たちも凄かったのだ。

 

となると、一番反省すべきは、私たちスタッフ、そしてコーチではないだろうか?


選手に「プロ意識を持て!」と言う以上、

私たち自身が「プロ」でなければならない。
選手の1秒はコーチの1時間という言葉もあるが、

私たちスタッフ、コーチは、どれだけの「プロ」だったのか?

 

勝負としては、最後の1秒までどちらが勝つかわからないスリリングな展開で、

そういう意味では面白い試合だったといえるかもしれないが、

あの7月1日のパールボウルは、「これぞ、日本のアメフトの頂点」と
言える試合だったのであろうか?

 

両軍合わせて一体何本のタッチダウンが見られたのか?

ワクワクするようなプレイが随所にちりばめられていただろうか?

 

私は「否」と自戒を込めて答えたい。


選手の努力や駆けつけてくださった観客の皆さんに対して、

「プロ」として責任を果たせなかったことを痛切に反省している。

 

今、うちのコーチ陣は、秋に向けて準備を開始しているが、
まずは、この事実を真摯に受け止めること。

「自分たちは、何屋なのか? 何のプロなのか?」

という自覚を持つことから

あと184日後に迫ったライスボウルまでの階段、

それ以降に続いていく階段を上っていきたい。

 

 

2010年06月25日

岡田JAPAN決勝トーナメント進出!

「思っていた以上に喜べなかった」

サッカーW杯デンマーク戦で
野球などでいう「ダメ押し」の3点目を取った本田選手の弁。


カメルーン戦の後

「試合終了のホイッスルが次の試合の開始のホイッスル」
とおっしゃった岡田監督。

 

1993年にJリーグを発足させ、
17年かかって辿りついたアウエイでの決勝トーナメント進出は、
日本サッカーに関わったすべての人たちの大きな一歩であることは間違いない。

 

そしてそれは、今、日本中でサッカーをやっている

どれだけ多くの少年少女に夢を与えたことだろうか。

 

「日本(人)初!」というシーンのたびに
“We choosed go to the moon”

という有名なケネディ大統領の演説の一節を思い出す。

当時、確証もなかった「月面着陸」という人類の夢を目標に据えて、
何万人の人が努力を重ねて、その代表として宇宙飛行士が月面に立った。

 

個人の想いと組織の情熱。

 

私が昔在籍していたリクルートという会社は、
そのシーンを“情報が人間を熱くする”という言葉でCMに切り取り
19888年に放映した。

 

昨日から関西にきて、関西のフットボールの諸先輩にお会いしているが、
日本のフットボールの「夢」「目標」についてしみじみ思う。

 

話は遠く40年前にさかのぼるが、1970年代は、
本場米国への挑戦の黎明期でもあった。


NCAA(アメリカの大学)の強豪チームが来日し、
日本のチームと試合を行っていたし、
アサヒビールシルバースターの阿部監督に聞いたところ、
クラブチームもハワイやグアムの米軍基地に遠征し、アメリカと試合をしていたという。

 

スポーツをやる以上、世界と勝負をしてみたい。

いや、世界と勝負してこそ、競技スポーツであるということを
当時のアメフト界の方々はピュアに思っておられたのではないだろうか。

 

そういう“若さ”は、スポーツの持つ大きな魅力であり、存在意義である。

 

日本フットボールの「夢」「目標」をどのように創っていくのか?

 

来年はオーストリアで、
4回目のアメリカンフットボールのワールドカップ
(イタリア→ドイツ→日本→オーストリア)が開催される。

 

今回は8カ国での対抗。ドイツ、アメリカ、カナダ、メキシコなど
プロチームからの参加はまだないにせよ、前回よりも間違いなくハードルは高い。

 

15年目を迎えたXリーグ、

日本選手権となって27回目を迎えるライスボウル、

第4回のワールドカップの先に
どのような目標を描くのか。

 

それはチームやリーグを運営する私達の大きな仕事である。

 

2010年05月17日

歴代主将会を5月15日に開催!感動した!

 

その人たちは確かに居た。フィールドで燃えていた。

 

初代…稲葉泰成(慶應大出身)
二代目…中谷秀直(東大出身)
三代目…並河研(筑波大出身)
四代目…鈴木聡(早稲田大出身)
五代目…鈴木仁(近畿大出身)
六代目…池之上貴裕(関西学院大出身)
七代目…遠藤紀彦(一橋大出身)
八代目…仲益史(甲南大出身)
九代目…木下雅英(明治学院大出身)
十代目…遠藤紀彦(二回目)(一橋大出身)
十一代目…庄子達郎(中央大出身)
十二代目…古庄直樹(現役)(立命館大出身)

 

これは、オービックシーガルズの歴代主将の名前である。

 

■稲葉さん
「とにかくチームを創ろう。いろんなことやってみて、
あかんかったらまた、新しいことやれば良い」

 

草創期から現在までフィールドだけではなく“男稲葉”として
現フロント陣を始めスタッフ、代々の選手幹部を支えてくれた…。

 

■中谷さん
「弔い合戦だ!絶対にリーグ戦で優勝しよう」

 

二代目主将として草創期の同好会チームを引っ張った。

日航機事故で亡くなったチームメイトの寺西君の為にも

優勝しようとチームを鼓舞してくれた…。

 

■鈴木(聡)さん
「何やってんだよ!練習の準備しなきゃ!」

 

一部に入った頃のチームを何とか仕立て直そうとしてくれた。

当時のグラウンドは土のグラウンド。

練習前に鈴木さん自らが率先して線を引き、グラウンドを整備していた。
雨の日に「練習どうしよう…」と会議室でぐずぐつ言ってた幹部に向かって、

グラウンドからずぶぬれになって戻ってきて、叱りつけてくれた。


シルバースターに残り1秒で追いついた時にタッチダウンパスを捕った彼の姿は
永遠に忘れない。

 

■鈴木(仁さん)

「やいやいゆうな!やったらえええねんやろ!」

 

チームが不振を続け幹部もコーチも入れ替わった時期に主将を引き受けた。

男気そのものの人。怪我に悩まされながらも常に試合に出場、やってみせる姿

でチームを奮い立たせた。
そもそも関学を倒すために近大に入った闘将。

熱いプレイはDBのシンボルだった。

 

■池之上さん

「ええか、みんな!必死のぱっちやで」

 

関学時代に3年で主将になり、チャックミルズ杯にも輝いた豪傑。

人一倍練習し、初めてシルバースターに勝った時の試合では、

ノーズタックルとして、相手のオフェンスラインごと

ランニングバックを押し返していた。鬼神。

必死のぱっちでやろうという彼は、

日本人初のプロプレイヤーとしてドイツにも渡った。

 

■遠藤さん

「おもしろくないなぁ…」

 

超人的な体力、運動能力、精神力。

彼にとってはどんな激しい、厳しい練習も楽しいものだった。


激しくて、厳しくて、緊張感あってドキドキするそれが面白い!

そうでないことはおもしろくない…という、

彼がおもしろくない、と言い出すと周りは緊張した。
ディフェンスエンド、ラインバッカーとしてフィールドを面白く激しく暴れまわり、
相手QBを追いかけまわした姿は忘れられない。

 

■仲さん

「もう、けつ割れましたわぁー」

 

ディフェンスバックの熱さを引き継ぐ。

練習後も近くの海岸まで走り込みに行って、
それこそお尻が割れるような感覚まで自分を追い込む。

オービックシーガルズには、
類まれなるセンスを持つ選手も大勢いたが、

決してそうではなく、経験もない選手も大勢いて、

皆、ひっしのぱっちで、けつ割れるくらい練習し、思いっきり、フットボール
を楽しんでいた。

そんな象徴が仲さんだった。

 

■木下さん

「デイビッドのテクニック使えますよ!」

 

明治学院出身で、温厚で理知的なディフェンスエンド。

しかしプレイは鋭く、必ずPOA(ポイントオブアタック)に詰めより、

遠藤や海本、庄子選手たちとディフェンスエンドとして活躍。

テクニックの吸収力も抜群で、デイビッドヘッドコーチの申し子の
ような存在でチームを引っ張ってくれた。

 

■庄子さん

「本気?」

 

中央大学時代はラインバッカー。

しかし彼のスピードと身のこなしに天性のものを見出した
デイビッドヘッドコーチは彼をディフェンスラインにコンバート。

Xリーグ屈指のスピードDLとして活躍、

オービックシーガルズのスタッドディフェンスの看板になった。

そんな彼は、常々「本気」ということを大事にしていて、

チームDNAを創ったときには、そのコンセプトを
チームDNAの「本気」という言葉に結晶化させてくれた。

“東京ドームで闘う主将のブログ”
も記憶に新しい。

 

前置きが物凄く長くなってしまったが、
この歴代主将が、15日に習志野グラウンドに集ってくれた。

テーマは「OB会をオービックシーガルズらしくやるには、どうするか?」


という漠としたものであったが、

事務局サイドが出したある種無難な提案に対して、
次から次へと、「おもしろ」くて「本気」で「必死のぱっち」にやれるような「けつの割れる」
提案が相次ぎ、たった2時間の間に、原案がどんどんブラッシュアップされていった。

 

原案は、「年に1回くらいOB(250人くらい居る)で集まって、活躍しているOBの話を聞く」


それが…「活躍しているといっても、何かテーマがあった方が良い、

例えばリーダーシップとかイノベーションとか」


そして…「とはいっても何か目標があった方が、ただの勉強会だとせっかく集まる理由にならない」


となり…「OBだから、何か過去の話というよりも未来につながることをやりたい」

例えば…「チームが困っていることをOBが助けていく、その報告会とかはどうなのか?」


だったら…「クラブチームなので、雇用が一番テーマかなぁ…」

いやいや…「それは、ちょっとレイヤーが下ですね。何の為に選手を雇用していくのかが大事」


だとしたら…「チームのビジョンや構想を新たにしてそれに向かうというのはどうか?」


なるほど!…「具体的にするなら、チームからNFL選手を輩出するというのはどうかな」

面白い…「チームとしてアメリカに勝つ!という目標を決めよう」

 

で、全員が納得。

 

アメリカに勝つビジョンをまず来年の1月に発表し、

それにOBも含めた皆さんの力を借りたい。お願いし、

その後、様々なプロジェクトを起こしてその経過報告を
毎年1回やろう!ということになった。

 

このほかにもいろいろ「クリエイティブ」な話が飛び交った。
これからに乞うご期待である。

 

まるで、みんなで一試合をしたような2時間。
歴代主将会は、興奮気味に第一部を終わり、
その後懇親会へとなだれこんだわけである。
(懇親会では、もっと話がエスカレートしたのであるが)

 

私個人は、自宅に帰ってそのことを思い出して
涙がとまらなかった。
感動した。

 

その人たちは、
今も、これからも居るのだ!

 

選手が主役でワクワクするプレイで勝ちきるチーム。


これが"2010年の私たちのスローガンでもあるが、

OBOGまで含めて、日本のフットボールをワクワクさせる


そのことをやりきるための第一歩が踏み出せた日であった。

 

 

2010年05月13日

いよいよ3日後に2010年スタート!

 

2010年の初戦、ハリケーンズ戦まであと3日。

いよいよかというワクワク感と、
もう、シーズン始まってしまうよぉ!という焦燥感を感じる。

 

パナソニック3連続敗戦による昨年のシーズンオフから
早6ヶ月。

 

コーチング体制も変わり、トライアウトも終わり、
日々新たに今シーズンを創ってきたが、
どこまでベースを高めることができたか。

 

試合は、勝負ごとなのでその見極めが難しいことも承知で、
もう、明日試験なのか!という学生のような気分が残る。

 

特に私の仕事はGMなので、ヘッドコーチや選手に対して
環境という器を創るのが一番大きな仕事、


つまり、シーズンが始まってしまうと
仕事の半分以上は終わっているのである。

 

一方でチームは生き物なので、
シーズンが始まって“今年の顔ぶれ”を見ながら
創っていかざるを得ない部分も多く残る。

 

加えて日常的に同じ釜の飯を食えないクラブチームは
正直、毎週末の「顔」を見ながら創っていかざるを得ない。

 

そういう意味でも、
「ワクワクするフットボールをやりきって、
選手主役で勝っていくのが、オービックシーガルズ」
や「本気がDNA」という風に、

言葉として結晶化していくのは重要なことだ。


そんな意味で、
学びたいチームをまた見つけた。

草野球日本一を標榜し、実際に、2,000チーム登録されている
チームの大会で連覇を果たしている“東京バンバータ”。

 

このチームには、何とスポンサーもついているし、
チーム名、チームカラー、グッズなど、オリジナルにこだわって
選手の「士気」を高めている。

5月7日の日経産業でも一面で紹介されている。

 

 

リンク栃木や、東京バンバータ。
他にも学ぶべきチームはまだまだあると思う。

彼らの偉業には、及ばないとしても、
少なくとも「志」のあるチームとして初戦を迎えたい。

 

2010年04月23日

バスケットも2013年プロリーグへ!

バスケットの話が続くが、
日本リーグとbjリーグが
2013年に統合され、新たなプロリーグを創るという
という報道があった。

 

以下、スポーツ報知のサイトから引用させていただく。

 

国内に並立するバスケットボール男子リーグの統合に向け、
日本協会は21日、
東京都内で傘下の日本リーグ、別組織のbjリーグとそれぞれ覚書に調印した。


2013~14年シーズンを目標に新リーグの設立を目指す。

 

日本協会の木内貴史専務理事は新リーグについて
「(日本リーグとbjの)すべてのチームが参加できるようにしたい。
企業チームは地域に密着しながら分社化の努力をしないといけない」と話し、
企業チームとプロチームが併存する状態から段階的にプロ化を目指す考えを示した。

 

現在8チームの日本リーグは企業チームとプロチームが混在しており、
bjリーグはすべてプロの13チームで構成されている。
協会傘下を離れた新潟など6チームで
bjリーグが2005年にスタートして以来、分裂状態が続いている。


しかし、日本協会は統合の機運を受け、
3月の理事会でbjリーグの選手の協会登録を認めることを決め、
日本代表選出への門戸も開いた。

 

麻生太郎・日本バスケットボール協会会長
「(統合は)就任以来の懸案。日本の男子はプレー環境が良くなって、
 選手も大きくなっているのに弱い。ここからがスタートという感じだ」

 

木内貴史・日本バスケットボール協会専務理事
「関係者やファンの方が日本の現状を憂いていた。何とか打開しないと、
 と思っていた。統合で、今後の日本の強化の環境は少し整うと思う」

 

伊藤善文・日本リーグ理事長
「日本リーグは8チームがすべて新リーグに入る方向。
 主催試合をしっかり運営することが求められる。チーム名は、
 現在の企業名に地域名を加える形になっていくのでは」

 

河内敏光・bjリーグコミッショナー
「6年越しで日本協会に一緒にやろうと言っていただけた。
 日本リーグの栃木を見ていても地域密着の風が吹いている。
 選手は代表への道が開かれ、モチベーションが上がる」

 

続いて、4月13日の朝日新聞のスポーツ面
リンク栃木の優勝の報道から抜粋。

 

~支えたのは、プロ意識だろう。栃木はリーグで2つしかない
プロチーム。ホームでは、熱狂的なファンの声援を受ける。


MVPに輝いた田臥は、「栃木では毎試合、ああいう雰囲気に
なる。モチベーションとなって(アイシンを)絶対倒すという
気持ちが増していった」。地域に根差した球団とファンの一体感が、
三連覇を狙った王者アイシンを打ち砕いた。

 

誕生から3季目で一気に頂点へ。来季は日本代表を指揮するウイスマン
・ヘッドコーチは「日本のバスケ界がよりエキサイティングになる。
プロチームが育ち、もっとバスケが認知され、文化として根付いていけば
いいと思う。素晴らしい瞬間だった」と総括した。

 

リンク栃木をオービックシーガルズに置き換え
田臥選手をKJに置き換え、ウイスマンヘッドコーチを大橋に置き換え
アイシンをパナソニックに置き換え、
バスケット・日本リーグをXリーグに置き換え、


書きなおすように、
私たちの未来を拓いていきたい。

 

2010年04月15日

リンク栃木の日本一に脱帽

先週の日曜日、素晴らしいことが起きた。

 

創部3年目のリンク栃木が、強豪のアイシンシーホースを破って、

日本一の座に輝いたのである。バスケットの話だ。

 

 現在日本のバスケットのトップリーグは、
実業団とプロチームが混在する日本リーグと

地域密着型のプロチームで構成されるBJリーグに分かれている。

 

リンク栃木は、元々実業団としてスタートしたチームを再興して、

プロチームに仕立て直したチーム。

 

まさしく、新生の創部3年目、Ⅰ部昇格2年目で日本一を勝ち取った。

 

これは、快挙である。

 

勝ったことだけではない、ファイナルに進出し、
劇的に勝ち進む中で、栃木の人たちがまさにチームと一体となって、
喜び、チームの背中を押し続けていたことが、新聞にも書かれている。

 

聞けば、3年間で500回以上、バスケット教室を開いたという。


田臥選手の加入もさることながら、栃木のプロチームとして勝つ。
ということにこだわり通し、やりきったチームの皆さんの素晴らしい努力に
惜しまぬ拍手を送りたい。

 

GMの山谷氏は、元々はオービックシーガルズ

(当時はリクルートシーガルズ)の選手であり、
クラブチーム化後には、数年間、アシスタントGMもやっていただいた。

アメフト界からバスケ界に飛び込んでの日本一、彼の手腕と努力には、

脱帽である。

 

一方で、私が、25歳(周年)の決意として「千葉にアメフトプロチーム創設を!」
とか言っている間に、彼等はやり遂げた。


Xリーグがどうのこうの、、、と言ってる間に、彼等はやり遂げた。


このことについては、本当に恥ずかしい。

面目ないとはこういうことをいうのだろう。

 

リンク栃木に少しでも追いつけるよう、頑張って行こう、
いろいろ教えてもらおう、と思いを新たにした。

 

2010年04月09日

戦いの総和(Σ)

 

グラウンドで戦うのは選手。
しかし、戦っているのは、彼らだけではない。


コーチや、トレーナー、スタッフ、事務局までも
それぞれの戦いがある。

 

5月16日の初戦にむけて、既に戦いは始まっている。


選手達に対して、
1つ1つのプレイイメージをいかに上手に伝えきるか。
これはコーチやコーディネイターの戦いである。

 

一人でも多くのお客様にスタンドに来てもらうために
今日というかけがえのない日をどのように使い切るか。
これは事務局スタッフの戦いである。

 

秋のリーグ戦初戦までに、
いったい何人の習志野の方々に会えるか。
これは、チーム全体の戦いである。

 

日々のトレーニングも、
仕事をしながら、家庭を持ちながらの身であると、
気を許せば優先順位が下がる。これも戦いだ。

 

オービックシーガルズでは、
かつて「腹筋メール」というのが選手の間で
飛び交った。

 

毎日100回腹筋をしたら「腹筋した!」とメーリングリストに
流すだけのものであるが、これが非常に効果的だった。

 

仲間たちへの、リ・テンションにもなるし、
自分がトレーニングしたことを確認することにもなる。

今年は、合同の早朝トレーニングも流行り出している。

 

試合になったら、誰しもが戦うモードになる。
しかし、本当に試合の勝敗を決めるのは、
チーム全員が、それぞれの持ち場で、
如何に「勝負」に挑み続けるか。
の「総和」である。

 

パールボウル予選まで37日
ライスボウルまで269日

皆で勝負し続ける年にしたい。

2010年04月06日

1,000人に1人の誇りと技

今年の春の三寒四温は、いつもの年より波が大きい。
コートをしまいこむタイミングが難しそうだ。

 

練習のほうは、日本代表の練習がある週だったり、
ない週だったりとこちらもなかなかテンポがつかめない。

 

日本代表には、オービックシーガルズから、
デイフェンス…古庄、藤本、渡辺、塚田、紀平
オフェンス…古谷、宮本、清水
と合計8名の選手を選んでいただいた。

 

24日のジャーマン・ジャパンボウルでは、
思いっきり暴れてくれるであろう。

 

さて、1,000分の1という数字。


これは、よく私が例えにだすのだが、
サッカーの競技人口を仮に、日本サッカー協会に登録して
いる選手の数とすると100万人と言われている。

 

で、トップリーグであるJ(J1、J2)が約1,000人いるから、
日本のサッカー選手の1,000人に1人がプロ選手という計算になる。

本当はもっと分母が大きいかもしれないが。

 

アメフトはどうかというと、競技人口は2万人。


それもヘルメットを被るコンタクトがあるアメフトが2万人。

 

日本代表のオフェンス、ディフェンスのスタメンが22人(+α)
なので、こちらも1,000人に1人。という計算になる。

 

ものは、考えようであるが、
日本のアメフトのプロ化は、かつてのラグビーの
オールブラックスのように、まず日本代表をプロ化する。
という手もあるのではないか。

 

競技者の1,000人に1人という確率で言えば、サッカーとも同じである。

 

決して批判するものではないが、
今回のジャーマンジャパンボウルのための渡航費は、
選抜された選手たちにも個人負担があると聞いた。

 

オービックシーガルズの8人には、

チームからきちんと補助はする。

 

そして彼らには胸をはって、

1,000人に1人=日本代表=プロレベルの
技と誇りでドイツで戦い、勝利してきて欲しい。と思う。

 

そしてその戦いぶりを、応援してくれているフラッグチームの
ジュニアのみんなや、先日川崎のイベントで知り合ったチームの
みんなにも伝えていきたい。

 

今日、そして、明日のために。

 

2010年04月01日

リクルートの50周年の日に思う

昨日は、株式会社リクルートの50周年の創立記念日。

 

オービックシーガルズは、1983年に誕生し、今年で27年目を迎えるのであるが、

はじめの一歩は、リクルートの社員と社外にチームメイトを募った同好会であった。

1988年に実業団チームへと格上げされ、会社も巻き込んでのチーム強化を行い、

ハワイ大卒のデイビッドスタントヘッドコーチや、日本国内の強豪大学の選手の

加入もあって、1996年に初の日本一を勝ちとった。

 

スポーツのチームづくりと企業運営は、あまり一緒に語ることはできないが、

当時のチームは、平素一生懸命働きながら、休む間もなく、アメフトと仕事に

頑張り続けた選手たちで創ったので、良くも悪くもリクルートっぽいチームであった。

 

今日から始まるリクルート50周年記念展「時代と、人と、情報。」展

リクルートのOBとして手伝わせていただいた関係もあって、

昨日の創業記念日に行われたプレオープンパーティーでは、

多くの先輩たちにお会いした。

創部以来顧問をつとめていただいている神山さん(就職情報、とらばーゆなどの産みの親)、

若月さんを始め、もともとの同好会を創ったときの部長の大沢さん

(リクルートの創業者のお一人)、初代応援団長の岡田さん、チーム名を考えるときに

お世話になった溝渕さん、実業団チームになった当時の総務部長だった徳田さん、

立教大学のOBでポールラッシュ杯関係でもお世話になっている田中さんなど、

このチームは実に多くの先輩方に産み育てられたことを思い出し、

感謝の念を強くした次第である。

もちろん、リクルートの二代目社長で、昨年まで総監督を務めていただいた

位田さんもいらっしゃっていた。

リクルートの魂を受け継いできた、オービックシーガルズ、である。

 

一方で、リクルートは次の50年に向けて大きな節目を迎えている。

これからどの企業もそうであるように、社会も経済も事業も、人づくりも、

未来から預かっているものとして、よりグローバルに、

より人間的に歩んでいくことが大切になるであろう。

 

オービックシーガルズに関して言えば、

国づくりというような視野はさすがにもてないが、少し近い将来、

例えば、先日川崎のフラッグフットボールイベントで頑張っていた高津の小学校の

クオーターバック・YAMATO君が大人になったときに、アメフトやっていて良かったと

思えるようなアメフト界にしていくことが、

今までアメフトをやってきた私たちの務めなのではないかと思う。

 

ブログ、長らくサボっていたが、改めて書き続けようと思う。

さらに、3月からツイッターも始めてみた。

 

2009年12月01日

シーズン終了のご挨拶

いつもオービックシーガルズを応援いただき、ありがとうございます。


ファーストステージを4勝1敗の2位で通過し、日本一奪回に向けて背水の陣で挑んだ

セカンドステージは、第1戦のIBMに44-14と勝利し、続く第2戦は、最大の難敵・

パナソニック電工インパルス[11/22(日)、大阪市・長居球技場]との3年連続の

顔合わせとなりました。

 

この試合は、前半をリードするなど昨年以上に健闘したものの20-23で敗れ、

オービックシーガルズの2009年シーズンは終了いたしました。


ファーストステージ最終戦のアサヒビールシルバースターに敗れた後、

自分たちの足元を見つめ直し、「勝ちきるチームづくり」に一丸となって取り組みました。

いわば、春から積み上げてきた個々の選手の土台に、さらに緻密かつ綿密なチームワークを

付加していく作業です。実際、パナソニック電工戦までの4週間は、今までにない

密度の濃い時間を過ごし、選手たちは集中力高く戦いましたが、結果は敗戦でした。


これでオービックシーガルズは、3年連続で、パナソニック電工戦での敗北により

シーズン終了を迎えてしまいました。ご期待を裏切り続ける申し訳なさ、

自分たち自身への歯がゆさ、3回同じ相手に敗れる無念、等々いろいろな念が残りますが、

忸怩たる思いで、さらなる進化・成長に向けて、チームづくりの基礎から見直す所存です。


今シーズンも、ここまでオービックシーガルズを応援いただき、誠にありがとうございました。

このシーズンオフから来年にかけて、1日1日、真価が問われていることを肝に銘じて

精進いたします。

2009年06月26日

私たちはどこまで来たのか?

先週のパールボウルから一週間。

 

17-20という結果を生んだプロセス、
昨年のシーズンオフから6月19日までのプロセスを
振り返っていた。

 

昨年の11月にオンワードオークスが活動を休止し、
相模原ライズとして新生し、新たな道を選択。
一方でROCBULLが入れ替え戦を辞退し、二部に降格。
経済環境の激変に伴い、クラブチームが受難の時代。


連覇を果たしたパナソニック電工や鹿島や富士通の
盤石ぶりを見ても、企業チームの3強に食い込むことが
なかなか難しくなってきている。

 

そのような中、チーム強化自体を「強化」しようと
新たにGM制を敷き、選手の環境面から、雇用まで
何か「+」にできないかと模索してきた。

 

結果としては、はからずも、
旧オンワードからの移籍者を多数迎えたことや、
昨年から取り組んでいる下半身強化のトレーニング、
近年力をつけてきた国士舘大学からの加藤、平野の
両選手の加入など、春の時点では近年にはない、
充実したチームづくりができた。

 

昨年の今頃どのような状況であったかというと…


パールボウル準決勝で富士通に逆転負けし、
草津まで遠征した立命館大学との試合では
こてんぱん(まさしく音感通り…)に負けるという
決してよくない状況であったことを考えると、
チーム強化は一定の成果を生んだのだと思う。

 

選手諸君をはじめ、コーチ、スタッフ、
フロント陣の皆さんには、改めて
「この春は近年にない成果を生んだね!お疲れ様!」
と言いたい。

 

一方で、富士通、鹿島も同じように春のシーズンを
すごし、私たちと対峙した。


富士通には、試合終了間際で逆転できたが、
鹿島には、それが通じなかった。


決して、富士通より鹿島が強い、というのではなく、
前半から着実に加点できる「地力」が私たちになく、
後半になっても追い上げられる「地力」が富士通や
鹿島にあった、ということである。

 

しかも、鹿島に対しては、
「来ることがわかっていたプレイ」を阻止することが
できない。「前半出ていたプレイ」
が後半になって、止められてしまった。

 

この展開は、昨年の秋の鹿島戦、
そしてパナソニック戦と同じである。

 

乱暴な言い方をすると、


春の頑張りによって、
昨年の11月のレベルくらいまではチームは到達した。
しかし、これからどうするのか?
「地力」をどう高めるのか?

という問いにチーム全員がどう応えていくか。


答えは「地力」というものをどういうところに
置くかにあると思う。

 

今週来週と、2週間のオフがあり、
7月11日から練習を再開するが、
例年と同じような「夏の入り方」をしてはいけない。
直観的にそう思う。

 

去年の11月の鹿島戦、パナソニック戦の
前に自分たちがいる、頭と思考をそこから始めたい。

 

今年から導入されるセカンドステージの厳しい戦いの中で
具体的にチームとしてどのように力を発揮していくか。
具体的に個人個人は自分の相手にどのように勝つか、
あるいは凌ぎきるのか。そういう思考の戦いを積み重ねて
自分の体を創り、技を磨く。

 

2週間のオフがあったからとりあえず、
体を慣らしていこう…といった悠長なことではいけない。

そのように結論づけた1週間であった。

 

2009年05月31日

“チームウエア”への取り組み


昨日5月30日、パールボウルトーナメントの準決勝で
富士通フロンティアーズと対戦し、ディフェンスの粘り勝ちで20-17と辛勝。

6月19日のパールボウル進出を果たすことができた。

 

昨年は、同じ準決勝で富士通に逆転負けを喫したが、

今年とは違う、春を鍛練期と位置づけていた。

したがって、準決勝でもほぼ全ての選手をローテーションで出場させ、

試合経験を積ませて秋への備えとすることを主眼においていた。

 

オープン戦…というほどリラックスした試合では決してないが、
比較的自由度を高くして試合に臨んだ。


昨年の富士通戦は、オービックが先制し、

その後も選手たちも伸び伸び戦っていたが、
後半になって徐々に富士通が地力を発揮、富士通の若手レシーバーが
続々とパスをキャッチしては、オービックの若手DBをやすやすと振り切って
ゲインを重ねて、ついに逆転負け。


これを目の当たりにした選手たちから、試合後に…
チーム運営についての疑問の声が上がる。

 

“春、経験を積むことが大事なのであれば、富士通に何としても勝って、

 春の決勝という大舞台でより強い鹿島と試合をすることが

 一番の経験になるのではないか?”と。

 

打ち手というものは、常に意志、意図があるが、はずれることもある。

 

昨年、多くのベテランメンバーを抱えていたオービックのコーチ陣は、
春に若手を鍛えることが、秋の決勝トーナメントを戦い抜く資源になると

考えて「全ての若手に試合経験を積ませる」ことを主眼に、
春~夏のチーム強化計画を組んでいた。

 

しかし、2008年シーズンを終わってみれば…結果として…
春の決勝で戦いたかった鹿島ディアーズに、リーグ戦決勝で惜敗。
決勝トーナメントのファイナル6の1回戦では、
パナソニック電工に先制するも、後半に逆転されて敗戦。
ベスト6止まりの戦績に終わってしまったのである。

 

“鍛えること”とは、いったい何なのだろう?

 

フィジカル(身体能力)
スキル(技術)
スキルを支えるナレッジ(知識)


という見えやすいものだけではなく、

 

思考やメンタル(精神)といったマインドウエア。

あるいは、個人だけではなく、
チームまで見渡して鍛えて行かなければならないのではないか。

 

ハードウエア(身体)
ソフトウエア(スキル&ナレッジ)
マインドウエア(思考、精神)
パーソナルウエア(個人)
チームウエア(組織全体)

鍛える部分はもっと大きく深いのではないだろうか? 

 

ハード、ソフトは直接選手たちに触れるコーチやトレーナーの担当領域であるが、
それを支えるマインド、全体を機能させるチームの領域は、
コーチ、トレーナーだけではなくオペレーションスタッフ、フロントスタッフ、
そして何よりも選手たち自身がその「創造」に主体的にかかわらなければ
ならない。

 

さらに、チームや個人を支える「環境」までも視野に入れていかないと、
総合戦では勝てない。はたして環境というものが鍛えられるかどうかは

別にして…。(整える…ぐらいか)

 

今年の新人選手研修で、2年目の選手がゲストスピーカーとして参加し、
「去年のシーズンは、結局最後まで“新人気分”が抜けませんでした」
というコメントを異口同音に語り、私は少なからずショックを受けた。

 

「チャンスは平等に準備するから、
 秋の後半の試合までに、一人前になれるよう頑張れ…。」

 

チームからこのようなメッセージを受けた新人選手や若手選手たちは、
それなりに頑張れば、オープン戦やシーズン前半の楽な試合には出場できた。

 

しかし、決勝進出を掛けた最終戦で一体何人の新人選手が出場し、活躍したのか?
と問われると、残念ながら満足な結果を得られていない。

ここぞ、という試合に新人を出せてこそ“鍛えがい”があり、育てた人が褒められるのではないか?

“楽な試合ではチャンスは平等”では結局人が育たなかったのである。

そして楽な試合は、おそらく楽な練習を生み出していたのだろう。

それはつきつめれば、楽なフットボールライフにつながっていたのではないか? 


おそらく、最終戦のパナソニック電工に負けて悔し泣きをした新人選手は、

一人もいなかったであろう。多くの選手が「新人気分」だったからである。

試合に出られなかった多くの中堅選手も同様であったに違いない。


練習は、常に試合と同じ。

毎週の練習=試合で自分を鍛え磨き上げる。
1プレイのミスの重さは練習でも試合でも同じ。
個人もチームも全体でそのことに取り組む。

 

そしてどんな試合であっても、オービックらしく勝てるメンバーで挑み、
チーム全体で「チャンピオンシップ」を常に意識した試合を行う。

新人も中堅もベテランも可能な限りの努力を行い自分を磨く。


練習のスクリメージでさえも出られなかったら悔しく思い、
自分を叱咤激励する。

練習よりも試合が楽だった…。そう思えるまで集中する。

そう思えるまで自分ができることに挑み続ける。

 

そうなれば「新人気分でした…」という言い訳はなくなる。

 

こういうチームワークを創り上げること。
コーチやトレーナー任せにせず、選手が主人公となること。
フロントも事務局もそれぞれに精一杯考え、戦い続けること。

 

これが私が春の始めに掲げた“強化システム自体の強化”の基本構想である。

 

移籍組の活躍もあり、辛勝した昨日。
久々のチャンピオンシップゲームへの切符を手にすることができた。

 

試合そのものは、
ここ一番で集中力をみせたディフェンス陣に比べて、
前半から3Qまでミスを連発し試合の主導権を握れなかったオフェンス陣など

反省点も大きいが、決勝進出の意味は大きい。

 

ここ2週間の選手たちのメーリングリストでの発信や、
平日の練習の参加度などのコミットメントを考えると、
明らかに去年の春とは違う、チームウエアづくりが始まったと確信するからである。

 

2009年05月17日

2試合を終了して

 

本日、川崎球場においてパールボウル予選の第二戦である
明治安田生命パイレーツ戦が行われ、
第一戦の日本ユニシスブルズに続いてお蔭様で勝つことができた。

ここ3年で過半数が入れ替わった、新しい、若いチームにとっては、
貴重な試合であり、特に今年は攻守のコーディネーターも交代したので、
2試合である程度の結果が出たことには、ほっとしている。

 

アメリカンフットボールチームは、毎年毎年の対戦相手を分析し、

チームを創っていくスポーツであるので、ある意味「相手次第」でもある。

おそらく、毎年強いチームには2種類あって、

・どんな相手が来ても自分たちの力(パワー、プレー、戦略)で
 相手を圧倒できるチーム。

・それ相応の地力があって、その上に相手チームの分析と

 それを打ち破る戦略性で相手を凌げるチーム。


前者は、全盛時を誇った日本大学フェニックスや、
今年のライスボウルでもパナソニック電工を破った学生界の雄・立命館大学パンサーズ、
そしてXリーグではパナソニック電工などがそうであろう。

後者は、学生では関西学院大学、法政大学が筆頭格、

そして社会人のベスト4クラスのチーム(富士通、鹿島、アサヒビール)などがそうであろう。

オービックシーガルズは、昨年から突き抜けたチームを目指して、
おそらく前者を目指してやってきてはいるが、道のりはまだまだ、
まだまだ遠い。

 

それは多分にアメリカンフットボールの競技特性にも起因する。
近年のアメリカンフットボールでは、まず対戦相手を分析し、
それを上回るチーム戦略を作り上げ、それに基づいた練習、

ひいてはトレーニング(体づくり)を行うからである。

極論すると、1点差でも勝てば「勝ち」のチームづくりを目指すので、
対戦相手次第のチームづくりになる。強いチームが来れば強いなりに、
弱いチームが来れば弱いなりのチームづくりになってしまう可能性がある。

 

全盛時の日大フェニックスは、故篠竹監督の理想とするチームを目指し、
あくまでもフェニックスらしい勝ち方にこだわった。
格下のチームと試合をしても、フェニックスらしい勝ち方ができなければ、
試合後であっても練習を敢行した。すさまじい執念である。

また、篠竹監督は同時に「サムライになれ」ということを選手育成の核においた。

これまたすさまじい。

 

今、私たちは、形だけ、言葉だけ、表面だけ「サムライ」を使ってはいないだろうか?
他の競技でも「サムライ…」と命名された代表チームがよく結成されるが、
残念ながら代表選手全員に「サムライ」の面影を見ることはできない。

 

日大とは違う、別の強豪のフットボール部での話。
強い相手との対戦を前にして…「次の試合、勝てるのか?」と監督が聞いたら、
昔の選手たちは、歯を食いしばってうつむいたという。
「今は、『はい、絶対勝ちます!』って明るく言うんだよ…」と
その監督がおっしゃっていた、と知人に聞いたことがある。

 

今一度、「勝つこと」の深い意味を考えてみたい。
試合結果、スコア、そういうものも確かに「勝つこと」の結果である。
しかし、関わった選手、スタッフ全員が「勝利したのかどうか?」
もっと言うと、本当に最後まで「戦えたのかどうか?」問いかけてみたい。

 

先制点を取られて取り返す。

これが、敵を倒すための戦略であればうなずけるが、

不用意な立ち上がりでの凡ミスであるとしたら、
戦うどころではなかったのではないだろうか。

 

2009年04月26日

14年ぶりのリーグ戦改編。

 

先週の月曜日に、春のパールボウルとこの秋からのリーグ戦改編
に関する記者発表会が開催された。

 

パールボウルは毎年のことであるが、リーグ戦改編については、

1996年にXリーグがスタートして14年目にしての改革なので、

マスコミの皆さんからも注目されていた。

 

1996年Xリーグが発足した当時、

“もともとは「トップリーグ構想」だったものを、いったんは、3つのdiv

に分けて、決勝トーナメントを儲けるという「暫定」なリーグ改革であり、

3年をめどに「トップリーグ化する」”と協会から発表されていた。

 

今となっては、このことを取り上げて「嘘つき」という方もいらっしゃらないし、

協会の執行部やチーム運営を担う方々も代替わりし、風化しているのも

事実ではある。

 

そのようなことを考えると、決して大きいとは言えないが

「一歩」を踏み出せたのではないか、と思う。

 

ただ、それにも増して大きいのは、甲子園ボウルの改革だ。

 

関西学生連盟が主催し、関西学生のチャンピオンと関東学生のチャンピオンが

戦うという甲子園ボウル、いわば東西学生王座決定戦が、 

大学選手権に装いを変える。

 

これによって地方の大学にも「甲子園への道」が開けた。

 現在の「地力差」を考えるとまだまだ壁は厚く高いが「道ができた」ことに

大きな意味がある。

 

この英断を下された学生連盟の大先輩方に最大の敬意を表したい。

 

翻ってXリーグ。学生リーグが踏み出した大きな改革の一歩に負けないように、

この2009年の記念すべきリーグ戦改編のシーズンを熱戦で飾りたい。

14年間のつけをこの1つのリーグ戦改編で払うことは

できないと思うが、改革に向けて進む起爆剤を見つけたい。

 

奇しくも、1年間に300チームが廃止された1998年の再来かと

思わせるようなこの経済環境下。

アメフトに限らず、残念ながら活動停止、廃部を余儀なくされたチームも多い。

 

だからこそ見にきていただいたお客様に、対戦チーム同士はもちろんのこと、

協会の皆さんにも一緒になってもらって、楽しくて、面白い、

そして、熱い、感動のある試合をお見せしたいと思う。

 

いよいよ5月5日。オービックシーガルズの開幕である。

 

2009年01月13日

本年もよろしくお願いします。

オービックシーガルズを応援して下さる皆様
また、このブログを読んでくださる皆様

明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。

 

昨年は、メルマガ会員の皆様向けのメルマガや
マンスリーレポートなどいろいろな発信に追われておりましたが、
今年は、きちんとブログを書いていこうと改めて決意いたしました。


今日のテーマは、パナソニック電工の敗戦とオンワードオークスの活動停止。

 

日本のアメリカンフットボールは、お正月のライスボウルで始まるが、
今年は、社会人代表のパナソニック電工が学生代表の立命館大学に敗れるという
幕開けになった。

 

スポーツを「行う側」から整理してみると、

 

文武両道という言葉にも象徴されているように
心身の鍛練、人間性の成長を助けるための教育・学びとしてのスポーツ、
その頂点としての大学スポーツ。


そして、その延長として、大人になったあとも自らの健康管理や余暇の充実、
自己成長、趣味の為に行う生涯スポーツ。

 

もうひとつは、ビジネスとしてのスポーツであるが、
高校野球、六大学野球、箱根駅伝、オリンピック…など
学生スポーツそのものが、ビジネスの「場」として成長してしまっていることも
あり「教育・学び」と「興行というビジネス」が妙に連結されてしまっている。


昨今そのことに対して疑問を感じる人はおそらくいなく、2つの異なったものが
連結されてしまっていることに麻痺していると言えるかもしれない。

 

なぜか?
そもそも、スポーツにはお金がかかるからである。

 

同時に、大会運営を支えるために、
試合会場などの公共施設や、警察などの公共機関を始め、
多くのボランティアなど社会の力、大人の力が不可欠である。

 

「お祭り」と言ってしまえばそれで終わってしまうが。
スポーツは社会財産の1つなのだ。

 

お金がかかること。
社会の力が大会や活動を支えていること。
社会財産の1つでもあること。

 

これらを考えていくと、
企業スポーツとは一体何か?
また、企業スポーツチームによって構成されている協会(リーグ)が
持っている「儚さ」について考えざるを得ない。

 

そもそも、企業が工場や事業を行う場所を地域に建設し、
従業員の福利厚生と今で言う地域的社会貢献活動の一環としてスタートした
のが企業スポーツである。

 

都市対抗野球や、ラグビー、かつてのバレーボール
などがそうであった。


やがて、企業スポーツは、その基本の「色」にいろいろな「色」が重なり始める。


社名が画面に移り、連呼されることがブランディングにもつながるからである。

 

ブランディングとは、強くなり「勝つこと」によって企業イメージを
高め、応援してくださる企業およびその関係者の人たち、その周辺の地域の人たちを
勇気づけることである。

 

一方で、企業がその社会で力を失うとき、あるいはその地域・社会から
他の場所に力をシフトせざるを得ないとなると、
企業スポーツは一気に減退してしまう。

 

そのような状況の中で、
企業スポーツを行う当事者は、その「プロ」として様々なことにチャレンジしなくてはならない。


強くあり続けること、より多くの人たちに愛され続けること、
その仕組みを創りだすこと。Jリーグやプロ野球などのように…。


当然、そのチームで構成される互助団体である協会は、もっと「プロ」であらねば
ならない。

 

そう考えてみると、企業チーム・社会人チームが学生チームに負けるというのは、
プロが学生に負けたということであり、本末転倒、危機感を感じる。

 

ライスボウルそのものは、もともと学生のオールスター戦として運営されていた。
それを、学生代表対社会人代表の日本選手権という図式に再編し、
さらにXリーグをスタートさせた社会人協会(リーグ)の意図からすると、
この本末転倒は、あってはならないことと、受け止めなければならない。

 

「日本のトップリーグと謳っているのは偽物なのか?」
チームを支える各企業やスポンサーからもしそう詰め寄られたらどう応えるのか?

 

正直言って私は、リーグで一番練習環境の良いパナソニック電工が、
ボウルゲームになると抜群の強さ、集中力を発揮することを知っているだけに、
今回の敗戦はショックである。


当然のことながら、彼らに敗戦した私たちは、
相当な覚悟でチーム強化をやりぬかないといけないと、
改めて覚悟をした1月3日であった。

 

奇しくも、オンワードオークスが「オンワードオークス」としての活動を停止し、
オンワードオークスに所属していた選手たちは、自らのチーム再建に向けて活動を
開始している。

http://ameblo.jp:80/oaks-saikenn/

 

選手たちはもちろんのこと、お金を出してきた方々、支えてきた方々にとって、
今回の活動停止は、断腸の思いであろう。今までのオークスが「本物」志向であった
だけに、どうしても活動を続けたい想いは痛いほどよく分かるし、同志としても
オンワードオークスが解散するのは非常に惜しい。

 

しかし、プロとしてどこまで再建できるのか?
関係諸氏には、相当な苦難が待っている。協会の関係諸氏にも「協会のプロ」として
志ある対応を求めたい。

 

パナソニック電工の敗戦と、オンワードオークスの活動停止。


年末年始に起こったこの2つのことは、
「プロとしてあり続けること」の厳しさと、もっともっと強く、愛されないと
私たちの存在は「儚い」ものであるということを痛感したできごとであった。

 

2008年09月11日

35-17 & 6398

IBMとの初戦。
いきなり最初のキックオフリターンでタッチダウンを喫し、
その後FGが追加されて0-10となったときは、昨年の初戦を思い出したが、
チームが落ち着きを取り戻して反撃し、後半になってからは、普通の呼吸で

フィールドをみつめることができた。

 

2人の若手QB、木下、村上選手のプレイぶりやラインバッカー塚田のインター
セプトなど若手戦力が力を発揮したことも良かった。ただし、まだまだミスも
多く無用な反則も多かった。まだまだ荒削り。

ファイナルスコアは、35-17と勝つことができたが、 

今のところファイナル6への挑戦権を得たというところだと思う。

 

スポーツチーム、特にアメリカンフットボールのような球技は、戦略的に
チームを育成し続けながら毎年毎年リーグ優勝と毎試合の勝利を目指す。


いわば、来年の戦いと今日、今の戦いがある。

 

かねがね「鹿の角」のようであると言ってきた。


私は奈良県出身で奈良公園の近くで少年時代を過ごしたのであるが、
牡鹿の角は、1年で生え換わる。そしてその角は、牡鹿の成長にしたがって
大きく太くなるのを見て育った。

 

毎年シーズンが終わるといったんその年のチームは解体し、
翌年の早春から、また新しいチームづくりを始める。
といっても、ゼロからではなく、今までの延長線でチームを創る。

 

25歳の私たちには、どんな「角」が生えているのか。


鹿と違って、シーズンが終わらないとその大きさも強さも形も
全容を表さない。

 

ここからが改めてのスタートでもある。

 

さて、もうひとつの数字、6398人。


5月から、玉ノ井選手発案の1万人プロジェクトを続けてきて、
6398人という結果になった。

 

9月10日が近づくにつれて「私の知人が○人来ます」「職場で50枚
チケットを買ってくれました」など…、

集客においても例年にない盛り上がりを見せ、

期待感を感じて昨日を迎えた。

 

私は、22番ゲートでお客様がいらっしゃるのをずーっと見ていたが、
6時すぎになると学生さんたちが入場され、子どもたちがお母さんと入場し、
7時前になるとお勤め帰りの方々が、次から次へとゲートを通って、

例のうちわを取って下さるのをみて(自分もかなり渡した)正直感動した。

 

私も事務局の一員として今まで少なからず集客を仕事としてきたが、
選手の本気が伝わると、ここまで違うのか。

 

改めて、オービックシーガルズの選手たちに敬意を感じた次第である。


正直いって65名の選手のうち、関西や遠方に在住の選手も10名以上、
関東で働いているといっても大企業ばかりではなく、お店に務めている選手も
個人で仕事をしている選手もいる。

 

そのようななかで、近年の関東のリーグ戦では異例の6398人に
来ていただけた(昨年のファイナル6の東京ドームでも5000人)のである。

 

自分たちが思いっきりプレイをするために仕事をしながら
激しい練習をこなし、さらにそれを見てもらうために発信し、
お客様に来ていただく。

 

これこそ、プロフェッショナリズムと言えないだろうか?

 

一方で、1万人はまだまだ大きな目標であることもわかった。
スタジアム型のプロスポーツでは、1万人…という集客は少ない。

 

選手たちの本気に対して、今度は、私たちスタッフが知恵の本気を
見せなければいけない番であると思いを新たにした次第である。

 

 

2008年08月18日

コーチの語源は「馬車」

 

12日に合宿が終了して、初めての練習。


合宿の熱気やテンション、全体のテンポというものが
どれくらい残っているのか?
これが、合宿後初めての練習に思うことである。

 

今日の気温は23度。
急に秋が到来したかのような陽気であるが、
そのことも幸いしてか、習志野のグラウンドに集まった選手は
元気一杯。合宿の疲れを見せない集中力で練習が進んだ。

 

ポジションごとの練習に目を移してみると、


QB担当の新生コーチと吉永ヘッドトレーナーが、
4人それぞれのQBの状況に合わせて作ったウオームアップメニューを
黙々とこなすQB達。

 

フットワークを繰り返し繰り返し教える
時本コーチとランバッカー達。「高い!オーバーフローや!」
という時本コーチの大きな声が選手を追いかける。

 

その横には、里見選手が帰国して合流したDB陣。
1989年に入部した現役時代から「基本に忠実」をモットーに
オープンフィールドでのフットワークを教える松場コーチ。
隣には、尾崎コーチもいる。

 

グラウンドのその反対側では、
一人ひとりのWRに、DBの抜き方を丁寧に教える中村コーチ。
今年からそのアシスタントとしてニ人三脚でWRを担当する
脇田コーチ。

 

その向こう側には、プレイングコーチの古谷(拓)選手が
RB陣にいろいろな身のこなし方を教えている。
アメリカ経験も豊富な古谷選手のコーチングは、説得力も高い。

今日はそこに大橋ヘッドコーチも加わって、二人で

RBを見ている。

 

そしてその隣には、タイトエンド陣にディフェンスへのブロックを教える
大村オフェンスコーディネイター。

大村コーチは、オフェンス全体をコーディネイターとして指揮しているが、
ポジションでは、タイトエンドを担当。

個性が異なる様々なタイプの選手を彼なりのリーダーシップと理論で鍛え続けている。

 

そしてさらにその隣には、オフェンスラインとディフェンスライン。
ライン陣の練習は、どのようなチームでも、エンドゾーン近く
つまり端っこになるのだが、ここが活気にあふれると
グランド全体が締まる。

 

オフェンスラインは、宮田コーチがコンビネーションブロックを
確認している。宮田コーチは、練習が終わるといつも声が
かすれてしまうぐらい、声を出す。

 

ディフェンスラインは、加藤コーチ。低く速く強いステップで、
スクリメージラインを割るには、こちらも反復練習しかない。
加藤コーチは、身のこなし方に造詣が深い。
ディフェンスラインの練習は単調になりがちだが、いろいろな
工夫をしてみんなを奮い立たせている。

 

また、その傍らでは、小山コーチが、オフェンスのセンターに
ロングスナップの指導をしている。
小山コーチは、オービックシーガルズ現役時代は、センター、
ガード、タックルもこなした万能選手。日本大学時代から
ショットガンに慣れ親しんでいるので、ロングスナップの指導にも
年季が入っている。

 

コーチと選手が一体となって、一生懸命に理想のプレイづくりを行う練習。


今回のオリンピックでも選手とコーチの二人三脚ぶりが話題になることも
多かったが、ここオービックシーガルズでもそれに負けないくらいの
空間ができつつある。

 

25年前に創部したときには、予想もできなかったことだが、
デイビッドスタント、マイケルレナード、柳秀雄など揺籃期に
チームのコーチングの基を築いてくれた先輩コーチ達のDNAも
確実に受け継がれているように思う。

 

ちなみにコーチという言葉は、
ハンガリーの町で15世紀くらいに四輪の馬車が最初に造られ、
その馬車が町の名前にちなんで「KOCSI」と呼ばれて、
それが英語で「COACH」となったと言われている。


教えられる人(学ぶ人)を「運ぶもの(道具)」が「コーチ」の語源というのも
なかなか意味深い。

 

オービックシーガルズという「馬車」の旅が

どこに行きつくのか、楽しみになってきた。

 

 

 

2008年08月15日

「絆」考。

 

オービックシーガルズOBの岩田光晴氏は、慶應義塾出身。


現役時代はキッカーとして、得点力が十分ではなかった当時、
キックオフやFGでチームの窮地を幾度となく救ってくれた。

 

岩田氏は、もともと私の出身高校(奈良高校)の1年後輩で、
高校、大学とサッカー部に所属。

チームには、1988年に、社内公募に応じて、初心者として合流してくれた。

 

現在は、慶應義塾創立150年記念事業室のまとめ役、

プロデューサー的な存在で、

150周年を迎える今年は、大忙しの毎日である。

 

この春から縁あって、映像の撮影・編集の仕事で、
その150年記念事業のお手伝いをさせていただいている。

 

慶應義塾の150年記念事業は、
何年も前から周到な準備と、多くの関係者を巻き込んで実施されている
大規模でかつ本格的なものを巨大なプロジェクト。

 

私がお手伝いさせていただいているのは「絆」というテーマで
周年事業などを通じた塾生同士のつながり、結びつきを記録していく
仕事である。

 

今までに撮影したものは、たとえば、

 

創立者の福澤諭吉先生の生家から、
三田の本部までの道のりを代々の自転車部のメンバーが走破したり、


ワンダーフォーゲル部が各地の三田会(慶應義塾のOB会)を訪問しながら、
歩きとおしたりといったものや、


前々回のブログでもご紹介した元塾長の小泉信三氏の回顧展を開いたり、
かつての名講義を再現した講義など。


このほかにも、撮影はしていないが、

全国各地で「学問のすすめ21」と題した記念講演が、

いろいろなテーマで開催されており、
慶應義塾創立150年ブックレットにまとめられ刊行されている。

 

今手元にあるのがVol3「家庭教育を考える」という小冊子。
(1冊300円)http://keio150.jp/shop/index.html

 

今日はその中の
「家庭の文化を創る」(渡辺秀樹慶應義塾大学教授の講演抄録)
「福澤諭吉の家庭教育」(岩崎幼稚舎教諭の講演抄録)
について引用させていただく。

 

「家庭の文化を創る」の中では、

 

元慶應義塾塾長の小泉信三氏が、
太平洋戦争で戦士した息子小泉信吉氏との思い出を記した
『海軍主計大尉小泉信吉』が紹介されている。

 

その本の中でも最も有名な箇所は、


息子の信吉がいよいよ出征をするというときに、
父小泉信三が息子に与えた手紙である。

 

以下、紹介すると…

 

君の出征に臨んで言って置く。
吾々両親は、完全に君に満足し、君をわが子とすることを何よりの
誇りとしている。僕は若し、生れ替って妻を択べといわれたら、
幾度でも君のお母様を択ぶ。同様に、若しもわが子を択ぶということ
が出来るものなら、吾々二人は必ず君を択ぶ。人の子として両親に
こう言わせるより以上の孝行はない。君はなお父母に孝養を尽くしたい
と思っているかも知れないが、吾々夫婦は、今日までの二十四年の間
に、凡そ人の親として享け得る限りの幸福は既に享けた…(後略)

 

時代も状況も違うが、親子でオリンピックに挑んだ選手の父と息子(娘)
も同じような心境なのかなぁとも思う。

 

また、オリンピックでなくても
日々自分の息子や娘が戦っている相手、そして戦っている本人を
きちんと見据えられれば、
親子の絆も、もう少しは深まるのではないかとも思う。


親は、子どもの戦友でありたい。

日常はオリンピックどころではないからだ。


もうひとつ、

「福澤諭吉の家庭教育」では、

 

福澤諭吉先生が、満八歳と六歳の息子にあてて教えた
「ひびのをしへ」が紹介されている。

 

「ひびのをしへ」は、明治四年に書かれたもので、
毎日一つずつの教えが書かれており、その最初に「おさだめ」がある。
こういうことをしたらいけませんという家庭教育のルールである。

 

以下、紹介すると…

 

おさだめ

一、うそをつくべからず。
一、ものをひらふべからず。
一、父母にきかずしてものをもらふべからず。
一、ごうじやうをはるべからず。
一、兄弟けんくわかたくむよふ。
一、人のうわさはかたく無用。
一、ひとのものをうらやむべからず。


絆。

 

親と子の絆は、このような、ルールを通じて、
コミュニケーションを重ねながら、
育まれていくように思う。

 

そして、それは、
社会と自分の絆の第一歩でもあり、

それがやがては、
組織や社会と社会の絆の基になるのではないだろうか?

 

今日は終戦記念日。

終戦記念日は、昭和という親と平成という子供の

「絆」の1つでもある。

 

 

 

2008年08月14日

2008年の最後のピースは「合宿」


私がチーム運営に携わるようになって早25年。


アメリカンフットボールも他の競技と同様に、
年度ごとにチームが変わるので、チーム創りを
25回繰り返してきたとも言える。

 

チーム創りは、

対戦相手と自分たちの戦力を分析し、自覚するところから始まる。

 

そして相手に勝つための戦略に基づいて
コーチングスタッフと選手を集めるところから鍛え上げていくまで

これらの一連の作業がチーム創りである。

 

一連の流れの中で行っていくことではあるが、

一方で見方を変えれば、特別な能力を持った選手やコーチ、

相手に対して脅威を与えるフォーメイション(そんな簡単にはないが)
あるいは、最新の人工芝のグラウンドなど、

 

いろいろなピースを集めて、組み上げていく作業であるとも言える。

 

この組み上げは前年のシーズンオフからすぐにスタートし、

 シーズン直前まで続けられる。

 

そして、毎年毎年その年の“最後のピース”が何であったか、

印象に残っていることが多い。

 

1993年私が最初に監督になった年の最後のピースは、
言うまでもなく元ヘッドコーチ、デイビット・スタント。

 

1998年、2度目の日本一を奪首した年は、
再来日してくれた元QB・WRコーチ、マイケル・レナード。

 

*デイビッド・スタント氏とマイケル・レナード氏
 のチームに対する多大な功績についてはオフィシャルサイト
 の1企画として後日まとめてみたいと思っている

 

2004年は、大村和輝・現オフェンスコーディネイター。

 

と、コーチングスタッフであることも多い。

選手もすでに200人のOBがいるので、

一人ひとりの顔を思い出すと、全員が゛ピース”とも言えるが、

特に最近印象に残っているのは、

 

2005年に、練習生から選手登録した現QB龍村学であった。

 

モノもある。
2006年は、習志野グラウンドに敷設された最新の人工芝であった。

 

外国人選手では、

2005年のケビン・ジャクソンに加えて、
2007年は、ジョン・ウエスト選手であったが、
残念ながら選手登録ができず、大変悔しい思いをした。

 

2008年はというと…

 パールボウル第二戦のアサヒビールシルバースター戦で大活躍した

新人QBの木下選手かなぁと思っていたが、


12日に終了した夏合宿の最終日を見て、
今年の最後のピースは「夏合宿」であると思った。


実は、夏合宿の最終日のオフェンス対ディフェンスのスクリメージを見て

その年にどこまで勝ち進めるか、なんとなくイメージしていたのであるが、


今年は、例年になく、充実感、臨場感のあふれるもので、
このような「場」を創り上げた選手、コーチ、スタッフの「総力」を感じたわけである。

 

とはいえ、開幕までは、まだ時間がある。

何が起こるかわからない。

練習自体にもまだまだ隙がある。

ここで慢心などもってのほか、油断なくチーム創りに心血を注いでいきたい。

 

 

2008年08月11日

「場」を守り育てる覚悟

 

オービックシーガルズが恒例の合宿に突入すると同時に
北京オリンピックも競技がスタートした。

 

世界各国から1万6000人にも及ぶ若者たちが
スポーツという言葉を通じて語りあう、
これがオリンピックである。

 

オリンピックや甲子園の高校野球、
いろいろな競技の大会を見るたびに、


選手同士の戦いだけでなく、
その選手がどのように育ったか、
そのチームがどのように強化されたか
はもちろんのこと、競技界全体の仕組みや
大会の運営、果てはお金の集め方まで気になってしまう。


仕事がらである。

 

もうすぐ公開される映画に
「ラストゲーム最後の早慶戦」がある。


映画のオフィシャルサイトが充実しているので
詳細の紹介はそこにゆずるが、

 

ストーリーは、

 

1943年、太平洋戦争の真っ只中にあって、
敵国であった米国のスポーツということで
六大学野球が廃止され、しかも学生の徴兵の猶予も
なくなるという状況の中、


戦地に赴かざるを得なくなった野球部員のために、
当時の慶應大学塾長の小泉信三氏が、早稲田大学の
野球部顧問の飛田穂州氏を訪ね、
「最後の早慶戦」の開催を依頼する。


早稲田大学当局は当初この開催を拒否するが、
ついには、実現し、最後の早慶戦が開催される。
という実話である。

 

今朝の新聞には、
現在も戦闘状態にある
ロシアとグルジアの選手が表彰台で
抱き合ってキスをするというシーンが報道されていた。

 

選手たちには、思いっきり競技をやらせてあげたい。
そしてその中で、人生を生きていく何かを掴んでもらいたい。
また、その頂上を凌ぎ合う中で、国や民族を超えた
友情を育んでもらいたい。

 

一方で、選手たち以上の情熱と覚悟をもって、

私たちOBは、その「場」を
守り抜いていかなくてはならない―。

 

合宿が終わり、
いつものように9月に開幕を迎えるXリーグ。


その「場」を守り、もっともっと輝く「場」へと
育てていく覚悟が自分たちにどれくらいあるのか?


昨今、繰り返している自問でもある。

 

2008年07月01日

いよいよ7月!

2005年の冬、私は杖をついて歩いていた。

 

大学時代から始めたアメリカンフットボールであるが、
今ほど練習の前後に入念なストレッチをしなかったこともあり、
柔軟性を高めない中で競技を続けたおかげで、腰が弱い。

睡眠不足が続くと、よく、ぎっくり腰になっていた。


2005年は、体重も96キロあり、秋の始めにぎっくり腰を発症、
それが坐骨神経まで響き、とうとう杖が必要になったのである。

 

「痩せる」「腹筋を鍛える」「睡眠をとる」。
腰を直すにはこれにとりかかるしかなく、2006年の春から、
まず痩せてみることにした。

特に運動もせず、食事に気をつけただけで順調に痩せ、

昨年、2007年の11月頃には、83キロまで減った。

 

体重減が一番効いて、2006年、2007年は一度もぎっくり腰に

襲われなかったので、当初の目的は、ほぼ果たされた。

 

2007年のちょうどプレーオフ出場が決まったある日、
ふと、何を思ったか、区営のトレーニングジムに出かけて、トレーニングをしてみた。
実に10年ぶりくらいの感触であったが、これが意外に面白い。


もちろん現役時代ほど重いバーベルは上がらないが、

一般の方々よりも少しは、上がる。

 

どうせなら、選手たちがプレーオフを戦っているのを陰で応援するつもりで
このトレーニングを続けてみようという気になり、
結局、12月の電工戦まで週に3回ほど通ってしまった。

 

肝心の試合は、タイブレークで負け、本当に悔しい。
試合に出場させてあげられなかったジョン・ウエストと抱き合って泣いた。
本当に悔しい…。

 

何かそんな思いが残ってしまい、
じゃあ、もう一度ライスボウルに出るまでウエイトトレーニングを続けてみようと
そのときに決めた。

 

願掛けトレーニング。

 

そんなところが発端であるが、続けていくうちに、46歳を超える年齢であっても、
徐々にトレーニング効果があがる。

いつの間にか、ジムの会員になり(そのほうが安い)、
ウエイトだけでなく、プールに入ってみたり、

ちょっとランニングマシーンで走ってみたりしていた。

 

なんだか体調も良い。(あたり前であるが)

 

腹筋も毎回300回以上やるようになり、
ベンチプレスも100キロが上がるようになる。
ランニングも、30分くらいなら続けられるようになった。

 

年が明けて、1月。


周囲は「東京マラソン」の話題が増え、
うちの新生コーチも東京マラソンに出場するということで、
毎日、東雲の自宅とオフィスの間を走ってやってくるようになる。

 

またまた、何を思ったか、私は、皇居をランニングで1周してみた。
1周5キロ、皇居なので信号もなく、ノンストップで走れるとは言うが…、

初心者にもとりかかりやすい皇居マラソンをまさか自分がやるとは…。


と、思いながら走ってみる。

すると、私よりも年上の女性ランナーに1周の間で2回も抜かれる。

悔しがる余裕もなく、「まじ、しんどい…」と思いながら
40分以上かかってようやく1周した。

 

そんなことをやっているうちに、

習志野のグラウンドでのチーム練習の間や、

ジムに行ったときにもよく走るようになる。

 

ここ2ヵ月でみると、週に3回は、1時間位走れるようになった。

1時間走ると概ね10キロ。


願掛けランニング。

 

そして、東京マラソンに初めて出た、芸能人が(にしおかすみこさんだったか…)
「東京マラソンに出るために、週に3回10キロ走った」と、
おっしゃっていたのを思い出し、このまま順調にいくのなら、、
私も東京マラソンに出場しようかと思うようになった。


「30キロの壁がある」と新生コーチも言っていたので、
まあ、今は“夢”くらいにしておいて。

 

とにかく、ライスボウルまであと180日。
週に3回だとして、合計1000キロの願掛けランニング。
ベンチプレスで、合計400tを上げるということをやってみようと思う

今日この頃である。

 

ちなみに、10キロを走るようになって、
体重が再び落ち始めて、現在、78キロである。


この体重は、社会人になったころの体重。


初心だ。

 

2008年04月14日

OBC和田社長の講演会に参加して…

「過去の経験の中に起業のヒントがある!」
 
先週は、4月8日のオービック40周年に続いて、
4月10日には、オービックビジネスコンサルタント
(OBC)の和田社長の講演を聞かせていただくことなり、
ちょっとしたオービックウイークとなった。

 

和田社長が講演されたのは、

私自身が在籍していた(株)リクルートのOB・OGで組織する

元リクルート会(通称“MR会”)の経営者分科会の4月例会。

 

1時間以上にわたって、和田社長が語られたことは、


どのような経緯、志で現在の会社を立ち上げられたか、
そして、いくつかの危機をどのように乗り越えられたか、


また、再来年で30周年を迎える会社OBCをどのように
成長させてきたか、、、

という多岐にわたる内容。


自らの経営哲学についても触れられ、

時 間があっという間に過ぎていった。

 

私自身、

今のアメフト経営会社(株)OFCを立ち上げて、今年で6年目になるが、

チームを存続させよう!という徒手空拳の思いのみで

会社を興してしまっただけに、
和田社長の辿られた道や、経営判断、戦略に対しては、
学ぶことばかりであった。

 

和田社長は、

学校を卒業した後、

学生時代からの延長線もあって、


・会計監査の仕事
・情報システムのコンサルタント
・会計の仕事を教える仕事


の3つの仕事をされていたというが、


結果的に会計のコンピュータソフトを創る仕事を選ばれた。

25歳での起業であった。

 

その後、今や誰もが知っている会計ソフト『勘定奉行』の
プロトタイプとなるソフトを創りあげ、

資金繰りに大変苦労しながらも、
ご夫人とともに売上をたて、何とか創業の端緒につかれた。

 

その後、25年で40万社のクライアントを獲得するまでに
成長されるのであるが、

「起業する気持ちはどういうところで生まれたのですか?」

という私たち参加者の質問に対して、

 

「どうせ起業するなら、好きな仕事、やりたい仕事をやるのが
 良いと思うのです。そしてそのビジネスの芽というのは、
 自分がそれまで一生懸命生きてきた過去の経験中に
 その“商材”があるものなんです」と応えられた。

 

また、『勘定奉行』というソフトの名前の由来に対しても、

 

「本来、ソフトウエアというものには、一番その国の
 文化、カルチャーが出てくるもんなんです。日本の
 中小企業に使っていただく日本のソフトウエアとして
 奉行という言葉や、CMのイメージでもある“歌舞伎”を
 起用したのは、そういう日本の伝統文化をこの商品の
 目指すべきところとしたい、という思いをこめたのです」

と説明してくださった。

 

これ以外にもっと紹介したいが、勉強になることばかりであった。


何よりも、和田社長が丹精こめて育てられたOBCの人たちや
その組織、商品、和田社長自身の誠実さに対して
しみじみと感じ入った爽やかな時間であった。

 

オービックシーガルズは、私自身の努力など小さなもので、
本当に素晴らしい人たちが集まってくれており

意識的に育てたということは微塵もないが、
おそらく人材面では日本のスポーツ競技の中でも
トップクラスであろうと思う、がしかし、もっともっと
丹精こめて人も、フットボールも育てていかなくては、と、
痛感した時間でもあった。

 

2008年04月09日

オービック創立40周年おめでとうございます

志をはたして、いつの日にか帰らん


4月8日、
メインスポンサーのオービックが創立40周年を迎えられた。


2003年にオービックシーガルズとなって以来、
早くも5年が経ち、何か自分の会社のことのようにも思える
今日この頃である。


昨日の4月8日は、都内のホテルで大勢のお客様、企業の経営者を
ご招待しての40周年記念パーティーが開催され、
私は、スタッフとして出席させていただいた。

 

印象深かったのは、
冒頭の40周年の年表ビデオのあとに、
招待されたお客様も、オービックの社員の皆さんも
その場に居た全員で「ふるさと」を合唱したことである。

 

頭にちらほら白いものが混じった、経営幹部や経営者の方々が、

スクリーンに映った歌詞を見つめながら

「ふるさと」を大合唱する場面には、何故かジーンと来るものがあった。

 

事前に「ふるさとをみんなで歌う」と

オービックシーガルズのオーナーでもある

野田オービック会長からは聞かされていたものの、
さすがに、全員が歌ってくださるとは想像していなかったので

まず、そのことに少なからず驚いた。

 

「ふるさと」

 

兎(うさぎ)追いし かの山
小鮒(こぶな)釣りし かの川
夢は今も めぐりて、
忘れがたき 故郷(ふるさと)

 

如何(いか)に在(い)ます 父母
恙(つつが)なしや 友がき
雨に風に つけても
思い出(い)ずる 故郷

 

志(こころざし)を はたして
いつの日にか 帰らん
山は青き 故郷
水は清き 故郷

 

高野辰之作詞・岡野貞一作曲/文部省唱歌(六年)


「3番の、志をはたして、いつの日にか帰らん。というところが良いのだ」

と会長がおっしゃっていたが、、、

パーティーに来場された経営者の皆さんも、

少なからず、野田会長と同じような思いで、
自分が起業した頃や、会社が小さく苦労された頃の場面が

蘇ったのではないだろうか。

 

1ヶ月ほど前に家族で観た映画『明日への遺言』の中でも、
岡田資(たすく)元中将とその元部下が、
拘置所のお風呂の中で「ふるさと」を大合唱をする場面があった。

 

いつの日にか志をはたして帰る場所、
ふるさと。


オービックシーガルズの面々にとっての
ふるさとは、チームメイトの待つサイドラインか
最後まで声を振り絞って応援していただいたファンが待つ
観客席か、、、母校か。

 

私にとっては、1996年の初優勝の場面を見ることなく
逝去した父の墓前である。

 

25周年を迎えるオービックシーガルズ、
必ずや志を果たすと改めて誓った一日であった。

 

 

2008年03月31日

突き抜けたチームはファンダメンタルから

この週末、東京では桜が咲き誇り、あちこちで花見が行なわれていた。
習志野のグラウンドでは、トライアウト後の練習生たちが合流し、
春のパイロットゲームに向けての練習も本格的になってきた。


明日からは、いよいよ2008年度。
“2008オービックシーガルズ”のチームビルディングも本番である。

 

 

昨年から大橋HCを中心に、「突き抜けたチーム」というキーワードが出されている。

2007シーズンは、最終戦、鹿島戦と勝ち抜いたことで、その兆しが見えたように思ったが、
最後は、松下電工インパルスに突き放されてしまった。

 

それからずっと、心の底に「突き抜けたチームとは、何なのか?」
「突き抜けたチームにするためにに、何をすれば良いのか?」
ということがひっかかっていた。

 

勝ったり負けたりという状況から抜け出ることなのか?

他を突き放す圧倒的な戦力はどうすれば生まれるのか?

 

最近、私のもう一つの仕事のクライアントのプロジェクトで、
偶然にも「突き抜け」という言葉を耳にし、ひとつの答えを得た。


そのクライアントでは、この1年ぐらいの間、競争環境激化の中、
どのようにしてお客様に選ばれる商品、サービスを確立するのか?
ということを「突き抜け」という言葉で表現し、経営トップを中心に
かなり熱い議論と検討を繰り返されてきたという。

 

今回私は、そのプロジェクトを社員全員で共有するイベントを
手伝うことになり、経営トップからミドルマネジャーまで様々な
キーマンの方々に「突き抜け」について話を伺った。

 

「突き抜け」というのは、決して突拍子もないアイデアやデザインではなく、
徹底的に目の前のお客様のことを考え抜いた結果「突き抜けた」商品、
サービスが生まれるということである。

 

「突き抜け」というのは、後からは変えられない部分での標準的なベースの品質が、

お客様の期待を上回って高いこと。

2008年03月03日

トレーニングは、ピラミッド

3月に入って、体づくりメニューが本格化し、
アメリカンフットボールの個々の技術を磨くドリルも加わった。


古く言えば「心」「技」「体」。
準備が全てと言っても過言ではないアメフトでは、
個々の選手の戦略や戦術の理解、そしてチームワークなど
「心」の部分、いわゆるソフトウエアの準備も膨大なものになる。

秋のシーズンインには、まだ時間があるように思うのは錯覚である。

今の一日一日が非常にだいじである。

何も考えずひたすら練習して汗を流すのも時には悪くはないが、

短期間により効果的な練習、短期間でより強靭で俊敏なボディを

手に入れたいというのは、誰しもが考えることである。


オービックシーガルズが、初めて本格的なトレーナーに

加わっていただき、ウエイトトレーニングを開始した頃は、
「どうやったら、効果的に筋力を向上させることができるか」
について選手も加わってよく議論した。
トレーナーだったら、そのあたりのノウハウがあるのではないかとの

期待から、仕事との両立を目指す私たちにとっておきの秘策を

授けてくれるのではないかと、アドバイスに耳を傾けた。

ところが、返ってきた答えは
「頂点を上げたかったら、底辺を広げて、大きなピラミッドを
作るようにトレーニングをすること」 。

簡単に言うと、最大筋力を上げたかったら、重い負荷を少ない回数

上げるのではなく、中ぐらいの負荷をたくさん、たくさん上げ続けて、

じょじょにその負荷を大きくしていくと、最後には、最大筋力が上がる。

これをランニングで言うと、速く走りたかったら、まずは、長い距離の

走りこみを重ねて、徐々に中距離、短距離と縮めていけば、

スピードを上げることができる。


というものであった。
今でこそ「加圧トレーニング」や「サプリメント」「酸素」などの

サポートアイテムが乱立しているが、その当時はそのようなものも

なかったので、そのピラミッド方式を信じるか信じないかしかなかった。

信じた選手の中には「実際に効果があった」という選手もいたが、

仕事やプライベートを言い訳になかなか浸透せず、
トレーナーの皆さんには、いらぬ心労をかけたように思う。


今、選手たちが3月中旬の本年度1回目の筋力測定を目指して
取り組んでいるのは、ベンチプレスやスクワット、懸垂などでは、
1回のトレーニングで必ず100回を上げるという方式。
かつてのピラミッド方式を彷彿とさせる内容だ。


私は、この一連のトレーニングについては、
アメリカンフットボールのフィールドの外で、
ウエイトトレーニングを始めとするトレーニングを行なうこと、
しかも、全体練習のない平日に、自分が主体となって
「ピラミッドを積み上げていくこと」は、筋力向上以上に、
自分の志を積み上げていくような効果があると思う。

かつて名主将としてチームを率いた遠藤選手のように、
類まれなる体力、筋力を持てあまし、

とにかく毎日何キロも走っていた、、、という選手は別だが。

 

2008年02月13日

2008シーズンイン “遠くを見よ”

「遠くを見よ」

 

昨年12月16日にチームで行なった2007年度納会の席で
久し振りに皆の前でスピーチをした。

 

思い返せば2007年も色々なことがあったが、
チームの勝利を信じて最後まで戦った仲間達に対して、
勝たせることができなかったという体の芯が焦げるような想いの中で、

もっともっと激しく戦わなければという、自らを奮い立たせるために

スピーチの時間をもらったという方が正しいかもしれない。

 

「遠くを見よ」とは、その席で私が皆に配布させてもらった、手紙である。

 

正確に言うと、高知の桂浜に立っている坂本竜馬の銅像の除幕式の際に、

故司馬遼太郎氏が坂本竜馬に宛てて書いた手紙のタイトルである。

 

全文は非常に長いものであるが、一気に紹介したい。
短い人生の中で、明治という時代、日本という国を開いた坂本竜馬に対して、

太平洋の彼方を見つめながら、これからもずーっと、世の人たちに

「遠くを見よ」というメッセージを送り続けて欲しいという司馬さんの願いが

込められている。

 

1983年に、同好会としてスタートしたシーガルズは、今年、
オービックシーガルズとして25歳を迎える。

 

25年間、私たちは「遠くを見て」頑張り続けてきたであろうか?


そしてこれからも「遠くを見て」頑張り続ける気概があるだろうか?

 

そのことが強烈に問われている。

 

 

1月末に社会人協会の理事会が行なわれた。

テーマは“社会人フットボールの今後について”。


私は、

「12年後の2020年にNFLと試合をする」
「22年後の2030年に日本国内において、
 アメフトプロリーグがきちんと産業化されている」
この2つを目標として提出した。

 

途方もない無謀な話かもしれない。
結果的に何年かかるかもわからない。


しかし“We choose to go to the moon”(ケネディ大統領)。
目的地を決めるからこそ旅といえるのではないか。

 

2008年2月9日、
オービックシーガルズの新たな旅が始まった。

 

 


※以下、本文中で紹介させていただきました司馬遼太郎さんの文章です。

謹んで全文を転載させていただきます。改行などは、私が個人の判断で
行ったものです。可能であれば、ぜひ、桂浜の坂本竜馬記念館を訪問

されることをお勧めいたします。そこでは、この全文がプリントアウトされて

無料配布されていると思います。

 

         ■■■■■以下全文■■■■■ 


銅像の竜馬さん、おめでとう。
あなたは、この場所を気に入っておられるようですね。
私もここが大好きです。
世界じゅうで、あなたが立つ場所はここしかないのではないかと、
私はここに来るたびに思うのです。

あなたもご存知のように、銅像という芸術様式は、
ヨーロッパで興って完成しました。
銅像の出来具合以上に、銅像がおかれる空間が大切なのです。
その点日本の銅像は、ほとんどが、所を得ていないのです。

昭和初年、あなたの後輩たちは、あなたを誘って、
この桂浜の巌頭に案内してきました。
この地が空間として美しいだけでなく、
風景そのものがあなたの精神をことごとく象徴しています。

大きく弓なりに白い線をえがく桂浜の砂は、
あなたの清らかさをあらわしています。
この岬は、地球の骨でできあがっているのですが、
あなたの動かざる志をあらわしています。

さらに絶えまなく岸うつ波の音は、
すぐれた音楽のように律動的だったあなたの精神の調べを
物語るかのようです。
そしてよくいわれるように、大きくひらかれた水平線は、
あなたのかぎりない大きさを、私どもに教えてくれているのです。

「遠くを見よ」
あなたの生涯は、無言に、私どもに、そのことを教えてくれました。

いまもそのことを諭すがように、
あなたは淼笵(びょうぼう)たる水のかなたと、
雲の色をながめているのです。

あなたをここで仰ぐとき、志半ばで斃れたあなたを、無限に悲しみます。
あなたがここではじめて立ったとき、
あなたの生前を知っていた老婦人が、
高知の町から一里の道を歩いてあなたのそばまできて
「これは竜馬さんぢゃ」とつぶやいたといいます。
彼女は、まぎれもないあなたを、もう一度見たのでした。

私は三十年前、ここに来て、はじめてあなたに会ったとき、
名状しがたい悲しみに襲われました。
そのときすでに、私はあなたの文章を通して、
精神の肉声を知っていましただけに、
そこにあなたが立ちあらわれたような思いをもちました。
「全霊をあげて、あなたの心を書く」
と、そのときつぶやいたことを、私はきのうのように憶えています。

それより少し前、まだ中国との間に国交がひらかれていなかった時期、
中国の代表団がここにきたそうですね。
十九世紀以来の中国は、ほとんど国の体をなさないほどに混乱し、
各国から食いあらされて、死体のようになっていました。

その中国をみずから救うには、風圧のつよい思想が必要だったのです。
自国の文明について自信のつよい中国人が、
そういう借り衣で満足していたはずはないのですが、
ともかくもその思想でもって、
中国人は、みずからの国を滅亡から救い出しました。

ですから、この場所であなたに会ったひとびとは、
そういう歴史の水と火をくぐってきたひとだったのでしょう。
そのなかの一人の女性代表が、あなたを仰いで泣いたといわれています。

その女性代表はあなたについて多くを知っているはずはないのですが、
あなたの風貌と容姿をみて、あなたのすべてと、
あなたの志、さらには人の生涯の尊さというものがわかったのです。

殷という中国におけるはるかな古代、殷のひとびとの信仰の中に、
旅人の死を傷む風習があったといわれています。
旅人はいずれの場合でも行き先という目的をもったひとびとです。
死せる旅人はそこへゆくことなく、地上に心を残したひとであります。

殷のひとびとはそういう旅人の魂を厚く祀りました。
この古代信仰は日本も古くから共有していて、
たとえば「残念様信仰」というかたちで、
むかしからいまにいたるまで、私どもの心に棲んでいます。

ふつう、旅人の目的は、その人個人の目的でしかありませんが、
それでも、かれらは、残念、念を残すのです。

あなたの目的は、あなた個人のものでなく、私ども日本人、もしくはアジア人、
さらにいえば人類のたれもに、共通する志というものでした。

あなたは、そういう私どものために、志をもちました。
そして、途半ばにして天に昇ったのです。
その無念さが、あなたの大きさに覆われている私どもの心を打ち、
かつ慄えさせ、そしてここに立たせるのです。

さらに私どもがここに立つもう一つのわけは、
あなたを悼むとともに、
あなたが、世界じゅうの青春をたえまなく鼓舞しつづけていることに、
よろこびをおぼえるからでもあります。

「志を持て」
たとえ中道で斃れようとも、志をもつことがいかにすばらしいかを、
あなたは、世界じゅうの若者に、
ここに立ちつづけることによって、無言で諭しつづけているのです。

きょうここに集った人々は、百年後には、もう地上にいないでせう。
あなただけはここにいます。
百年後の青春たちへも、どうかよろしく、というのが、
今日ここに集っているひとびとの願いなのです。
私の願いでもあります。

最後にささやかなことを祈ります。この場所のことです。
あなたをとりまく桂浜の松も、松をわたる松籟の音も、
あるいは岸打つ波の音も、人類と共に永遠でありますことを。

司馬 遼太郎

■昭和六十三年五月 
桂浜で行った龍馬先生銅像建設発起人物故者追悼会によせられた
司馬遼太郎氏のメッセージ

 

2007年11月10日

2年越しのグレートカムバック

11月4日、無事アサヒビールシルバースターに勝利し、
ファイナル6出場を果たすことができた。


思わぬ大勝となったが、フットボールにおいては、
時折そういう大差になることがある。

事実、昨年のリーグ戦では、

第4戦で富士通フロンティアーズに54-22で勝った。

ちなみに、その次の試合では、アサヒビールシルバースターに14-17で負けた。


その後、チームは下降線を辿り、長居で内外電機に大勝したものの、
準決勝でオンワードスカイラークスに逆転負けを喫し、連覇を逃した。

 

今年は、どうだろう、、、。
富士通に負けて、奮起してアサヒビールに勝った…。
とはいえ、リーグ戦終了時では、4勝1敗の2位、
という結果は昨年と変わらない。

 

チームとしては手応えを感じていると思うので、
迸る(ほとばしる)ものを大事にしながら、無心で練習を続けて、
11月19日の鹿島戦を迎えたい。


ちなみに、鹿島とは、通算7勝11敗でまだ負け越している。

ほとんどが1TD差以内の勝負を続けてきた。

11月19日も、厳しい闘いになると思うが、凌ぎ合いで勝ちたい。

 

さて、前回は、1996年の元祖グレートカムバックの話をしたが、
実は、もう一つ、“2年がかりのグレートカムバック”があったことに気づいた。

 

1997年から1998年のシーズンである。

 

1997年、
前年度に初の日本一となったオービックシーガルズ(リクルートシーガルズ)は、

日本一の余韻も冷めやらないまま、春のパールボウルを迎えてしまい、
大きな準備をすることなく、優勝してしまった。
決勝で対戦したのは、アサヒビールシルバースターであった。

 

「自分たちって、強いかも知れない」

 

口には出さないものの、
デイビッドスタントが苦労に苦労を重ねて育てた熱い雑草たちに加えて、
新入部員の勧誘がうまくいったことなどもあり、

前年の日本一に続いて春も優勝、チームの基盤が確立したのだと、

誰しもがホッとしたのだろう、
その秋、私たちはリーグ戦でまさかの敗退を喫する。

 

雨の川崎球場で、日産プリンスのオプション攻撃に翻弄され、
どうしても逆転できない。

試合終了間際にFGを試みるが失敗、27-28で敗れてしまう。

 

その敗戦は想像以上にチームにダメージを与え、
最終戦の鹿島に全てを賭けて臨んだが、13-17に終わる。
タッチダウンを狙ったQB松本選手からのパスが、
ゴールライン上でWR河本選手の手に入る寸前でこぼれ落ちた。
1997年、私たちは、3勝2敗で11月にシーズンオフを迎えることとなった。

 

「ぽっかり穴が開いたようね」
顧問の神山陽子さんの言葉が今でも耳に残っている。


1997年のシーズンオフ。11月のちょうど今頃、、
ヘッドコーチであるデイビッドスタントと監督の私、
ヘッドトレーナーの吉永さんと3人で、
長いシーズンオフをどうやってすごすかと思案した。

 

「UCLAに見学に行きたい!」

デイビッドが何かを決意したような顔で提案してきた。
11月だとアメリカのチームは、まだシーズン中、
しかもUCLAには、その頃クリニックなどでお世話になっていた
コーチの方々がいらっしゃるので、もしかしたら、
日本からの視察部隊を受け入れてくれるかも知れない。

勉強になるよ。
と、デイビッドがまくしたてる。

 

UCLAは、1970年代、1980年代ごろ日本にたくさん紹介された
あのUCLA。日本語にするとカリフォルニア大学ロサンゼルス校である。


しかも、1997年はローズボウルに出場できるかも知れなかった。
そんな強いチームが、シーズン中にどのような環境の中でどのような練習をして、

どのようなトレーニングをして、どのようなミーティングをしているのか、、、。

見てみたい…。
非常に興味を持った私は、じゃあ、主だったコーチ陣で行くことにして、

会社を説得した。

 

電光石火、私たちは、11月の中旬の1週間、ロサンゼルスに滞在。
デイビッドスタント、柳秀雄コーチ、松場俊夫コーチ、そして私の4人は、
毎日、ホテルとUCLAのグラウンドを往復して、練習を見学していた。

 

日本のXリーグから来た私たちは、1996年には日本チャンピオンであった、
と言っても、彼らにとっては、遠い東洋の国でアメフトをちょっとやってる程度、
でも何故か熱心な人たち、、、くらいに映っていた。

 

というわけで警戒されることもなく、

ミーティングルームにも自由に出入りでき、

練習もグラウンドで選手のすぐ近くで見ることができた。
時間さえ許せばコーチの人たちに何でも質問できた。
ミーティングルームにあるビデオテープも自由に見ることができた。


その上、空いた時間で、コーチ陣が順番に色々なことをレクチャーする

時間も創ってくれた。

 

「いやーこれはネタになるな」と当時の柳コーチや松場コーチが必死に
ビデオを見てはメモをとり、いろいろな質問をしていた。

 

残念ながら私は、あまり良く分からなかった。
ただ、試合と試合の間の1週間を本場のチームがどう過ごすのか、
彼らがどのような環境でフットボールしているのかは、
良く分かった。

私は、まだ本場アメリカで「○○ボウル」というのを観戦したことがないが、
何となくついていけるのは、このときの滞在が大きい。

気づいたことはいっぱいあるが、いくつかをランダムにピックアップしてみると、、

 

・アメリカの大学の体育局(アスレチックデパートメント)は、一つの事業部と言って良い。
・そのオフィスの半分を占めているのが、アメリカンフットボール。
・残りの半分の半分が、バスケットボール。
・そしてその残りの都合4分の1を様々な競技のブースで分けている 。

・アメリカの大学、そしてその大学がある州にとって、
 アメリカンフットボールは、大きなビジネスでありお祭りである。

 

・試合前の練習は、日本の大学でも導入しているようなスケジュールであり
 あまり特別なことはなかったが、

 対戦相手のダミーチームは、徹底して創られている。


 UCLAがその週末に対戦するのがワシントン大学だったので、
 そのユニフォームを身につけたダミーチームが登場してきた。
 (ちなみにダミーチームの主力選手は、スカラシップをあまりもらえていない
  人たちである、と聞かされた。アメリカでは同じ大学のチームでも
  スカラシップをもらっている人とそうでない人は、待遇が全て違う)

 それを試合形式の練習でコテンパンにやっつけるのである。

 やや芝居がかってはいるが、チーム全体でそういう雰囲気をきちんと

 作っているマネジメントには、徹底したものを感じた。 

 

・試合前の最後のミーティングが終わったら、チーム全員でバスに乗って、

 映画を観に行った。そしてそのままホテルに宿泊し、翌日試合という流れであった。

 映画は一体何を観たのかは知らないが、
 当然、モチベーションアップになるような映画であろう。

 

・試合は、UCLAの本拠地であるローズボウルスタジアムで行なわれた。

 8万人くらい入る会場の9割がLAの人たち、

 残りの1割がワシントンからやってきた人たち。


 同じアメリカ人であるが、今でいうJリーグのホームとアウェイと全く同じで、

 ワシントン大の応戦席は一ヶ所にまとめられ、両サイドを
 警官?警備の人?が囲んでいた。

 

・試合のハーフタイムには、
 フィールドと同じ大きさのアメリカの国旗が登場した。
 アメフトってやっぱり国威発揚スポーツなんだと改めて実感。
 何故か、ROCKYのシーンと重なる。

 

・試合が土曜日であったので、
 その週の火曜日、水曜日、木曜日は、
 毎朝7時から9時まで(もっと早朝だったかな…)大学のジムで
 全員が同じグレーのトレーニングウエアで黙々とウエイトトレーニングに
 励んでいた。和やかな風景など1つもない。
 190CMを超える大男の若者達が、
 朝7時とかに、ベンチプレスで200キロとか、
 スクワットで300キロ、とか、クリーンで100キロとかを
 黙々と上げ続けている。
 アメリカ国旗のシーンにこの場面もオーバーラップした。

 

・Xリーグで、朝7時から200キロのバーベルを上げる集団が
 いたら、間違いなくぶっちぎりで優勝であろう。

 

・後日談であるが、何故朝からトレーニングをするのかというと、
 前日の夜、選手たちが遊びすぎないようにするためである、
 と聞いた。アメリカだ。やっぱり…。


思い出し始めるときりがない…。

ものすごく収穫のあった1週間であった。


帰国後早々、デイビッドと私は、
UCLAのミーティングルームのシステムを取り入れようと、
千葉のグラウンドのミーティング室の改修に取りかかったほどである。

 

この1週間の海外研修の次に私たち3人が打ち出したのは、
後々まで語り継がれることになる“QUEST研修”であった。

 

2007年10月20日

元祖?“グレートカムバック” は1996年

いつまでも、どこまでも…。


25年の歴史をつれづれなるままに語ろうというブログであるが、
今日は少し飛んで、1996年頃の話をしたい。

 

デイビッド・スタントがヘッドコーチとなって、
本格的な、アメリカナイズドされたチームビルディングが進み、
加えて有望な新人の補強に成功し始めた1994年。

 

オービックシーガルズ(当時リクルートシーガルズ)は、

リーグ戦の最終戦で、鹿島ディアーズに1タッチダウン差で敗れて
リーグ初優勝を逃す。

 

戦いの後、当時の川崎球場(改装前)のマウンドの近くに座り込み、

泣き崩れていた選手たちの姿が今でも目に焼きついている。

 

「来年は絶対優勝する!」 涙ながらに誓い合った鷗軍団は、
翌1995年のリーグ戦で宿敵鹿島ディアーズを31-29で破り、
その後の東日本選手権(当時、まだXリーグではなかった)でも
アサヒビールシルバースターを33-27で破り、
社会人選手権出場を果たす。


しかし、その社会人選手権では、当時国内最強と言われた松下電工
(1994年に日本一となっている)に20-54の大差で敗れる。

 

勝って次のステージに上がったら、

もっと強いとんでもない敵が待っていた…。


少年ジャンプで連載されていたボクシング漫画“リングに賭けろ!”の

世界を彷彿とさせるような別次元のフットボールに敗れた私たちは、
悔しい…を通り越して、どうしたら良いかわからない…状態であった。

 

帰りの車の中で 「こんなに大敗したのだから、明日から何をやったら
良いかわからない。ライスボウルなんで夢や…」 とつぶやいた私に、
「あぁそう、そしたらまずは家の掃除をやってちょうだい」

と切り返した妻の言葉に、妙に慰められた私であった。

 

次の日、家の掃除を済ませた私は、ヘッドコーチのデイビッドに会い、
「どうしたら勝てるのか?」と聞いたら、

「フィジカルね!」 とまたも即答。

 

翌年のシーズンはチームを上げてフィジカルアップに取り組む。

オービックシーガルズ(当時リクルートシーガルズ)のオフの走りこみや

トレーニングが “名物” といわれるほどきつくなったのは、

おそらくこの頃からである。

でも、選手たちは 「家の掃除をしたくない」 から頑張っていた(笑)。

 

1996年。

1995年に負傷した怪我人だらけの春シーズンを終えて、リーグ戦が始まった。

当時、フィジカルレベルでは、東日本でトップクラスであったオンワードオークス

との夏の合同練習で少し手ごたえをつかんでの開幕であった。

 

がしかし、リーグ序盤で、20-26で鹿島ディアーズに敗れる。

 

試合後のチームハドルで、主将の遠藤紀彦選手が、
「俺達は、本当に勝ちが欲しい。なんとしても勝たなくてはいけない。
グレートカムバックだ!」と選手一人ひとりの顔を見ながら訴えかける。

 

試合後の最初の練習日、千葉グラウンドのミーティングルームには、
「GREAT COMEBACK」ボードが掲示されていた。


それ以降、練習のハドルでの合言葉に使われたり、
試合前に「GREAT COMEBACK」ボードをタッチして
フィールドに駆け出していくことになった。

 

鹿島戦の次は、強敵レナウン・ローバーズ。
勝たねばという気持ちが空回りして、どうにも得点につながらない。
得点は、相手に先行され、苦しい展開となる。


「このまま負けてしまうかも…」という言葉が脳裏をよぎる。

 

1996年は、新生Xリーグがスタートした年。
新生Xリーグは、3つのブロックでそれぞれ2位までが、
決勝トーナメント(FINAL6)に進むことができるという、
当時としては画期的なリーグ改革であった。

 

それまでは、優勝しないと社会人選手権に出られず、
東日本では12チームがたった1つの席を目指して、

しのぎを削っていたのである。

 

「レナウンに勝って、最後にオンワードに勝てば、
2位になる可能性がある。

そうなれば、決勝トーナメントに出場できる」

 

その思いが通じたのか、QB新生剛士選手(現コーチ)の
巧みなクォーターバッキングで、試合は29-22と逆転勝ちに終わり、
オービックシーガルズ(当時リクルートシーガルズ)は、
最終戦で、オンワードとの闘いに全てを賭ける。

 

試合会場は、横浜スタジアム。
「GREAT COMEBACK」ボードを叩く個々の選手の手に力が入る。

「絶対勝つ。しかも6点差以上で勝つ」という強い思いのもと、

チームは見事、28-21で勝利。

 

鹿島ディアーズ、オンワード、リクルートが3つ巴になり、

3チーム間の得失点差で、わずか1点の差で、

鹿島が3位、オンワードが2位、リクルートが1位となる。

 

ファイナル6。

初戦は、三和銀行を27-0で破り、
準決勝は前年に大敗した松下電工と対戦。


最強松下電工に対して、どこまでやれるか。
1年間のフィジカル向上はどこまで通用するか…。


不安な気持ちを吹き飛ばしたのは、、、
ディフェンスバック山本 崇選手のハードヒット。
ワイドレシーバー河本 晃選手の豪快なランアフターキャッチ、
その年に入部した堀江信貴選手のスピードであった。

 

終わってみれば試合は、22-13で見事な勝利。
チームの勢いはとどまるところを知らず、

決勝でも再びオンワードを30-10の大差で破り、
初年度Xリーグ王者に輝いた。

 

そして、明けた1月3日。
チームは日本選手権ライスボウルに出場、京都大学と対戦する。


京都大学は、1984年に日本一に輝いてから黄金時代が続いており、
その年も京都大学有利という下馬評であったが、

オービックシーガルズ(当時はリクルートシーガルズ)は、売り物になった

スピーディなディフェンスと、QB松本義幸選手、

ワイドレシーバー河本、堀江選手のコンビネーションと、
ランニングバック中野康隆選手、根崎元行選手の粘り強いランニング、
新人であったラインバッカー石山昌洋選手の闘志溢れるプレイがチームを支え、
19-16で見事勝利を収める。

満員の東京ドームで“グレートカムバック”が完結した。

 

この話には後日談がある。

“グレートカムバック”を掲げて戦いきったという遠藤主将の記事に、

交通事故で片脚を失った陸上選手が感銘を受け、
障害者陸上競技に再び参加、見事好成績を収めたので、
「ありがとうございました」という丁寧な礼状が本人から届いたのである。

 

雨が降るまで祈れば、雨を降らせる祈禱師と呼ばれる。

 

ということを聞いたことがあるが、勝負の世界も同じである。

 

勝つまで止めなければ「勝って」終われるのである。


勝てなかった悔しい気持ち、そこを乗り越えて立ち上がる強い気持ち、
そして、へこたれずに励ましあい、やり続けることのできる仲間。

 

人間は、負けて学ぶのではない。

勝つまでやって初めて、“負けて学んだ”と言えるのではないだろうか。

 

また、その「勝ち」をどのレベルまで高められるか。高め続けられるか。

それは、リーダーシップの大きな仕事ではないだろうか。

 

GREAT COMEBACK 2。

私たちは、富士通戦の負けから何を学んだのか。


アサヒビールシルバースターというチームは、
ここぞ、という試合では決して負けないチーム。
かなり困難な試合になることは間違いない。

 

ヘッドコーチ、主将以下、どこまで学べているか…。
11月4日。我ながら楽しみにしている。

 

2007年09月11日

初代キャプテンは現顧問の稲葉さん

チームとして活動していく為に必要なものは何か?

という問いに対して、勝利を至上とするスポーツにおいては、
まず選手、そしてコーチ、練習環境と続く。


かつて監督として学生援護会ROCBULL(現ROCBULL)
を率いていらっしゃった頃の輪島さんにお聞きしたときには、
「選手、稽古、土俵=グラウンド」と即座に返答されたのを覚えている。

 

私は、中でも“キャプテンの存在”をあげたい。


ラグビーではキャプテンシーという言葉で語られている。

確かに、試合が始まれば、

フィールドの中にいる選手だけで戦い抜くしかない(厳密に言うと違うが…)

ラグビーにおいては、

キャプテンシーが重要な位置を占めているのは自明であるが、

 

アメリカンフットボールにおけるキャプテンは、そのチームの「意志=WILL」、
魂、SOULを象徴する存在として、何よりも重要であると思う。

 

オフェンスとディフェンスの分業制が主流を占めるアメフトでは、
キャプテンが常にフィールドに居るとは限らない。
さらに、キャプテンがプレイしているところを多くのレギュラー陣が凝視している場面も多い。


だからこそ「おぉー!!」と衆目を唸らせるプレイを有言実行できる人が
キャプテンに相応しいと思う。

また、チームが勝つためにもっとも必要な存在は「キャプテン」ではないかと思う所以である。

 

練習やミーティング、あるいは、ユニフォームを脱いだ普段の生活の中で、
チームのことを一番想い、チーム創りに精を出し、チームの勝利に貢献することも、
もちろんキャプテンの素養、基本行動として必要である。でもそれは、コーチでもできる。

選手全員がやれば済むことでもある。

 

しかし、フィールドにいる選手全員を覚醒させ、つき動かすのは、
紙に書いた戦略やコーチの言葉以上に、たった1つのプレイである。

 

それをできるのがキャプテンである。 

 

かつて、サッカーのワールドカップ予選で、敗色が濃い中でも、

最後まで希望を失わずボールを追いかけ、ゴールを目指した

中山ゴン選手の姿に、多くの日本人が、

日本のサッカーの熱い想いを感じたのではないだろうか。

 

誰よりも、オービックシーガルズらしいプレイを
試合の最初から最後まで、シーズンの最初から最後まで
手を抜かないでやり抜ける人。それを見た人が

オービックシーガルズとは、そういうチームであると

納得してしまうプレイをできる人。

 

それがキャプテンである。


歴代のキャプテンは、延べ11人。


 初代   稲葉 泰成さん(#66・ライン)
 二代目  中谷 英喜さん(背番号…調査中。ラインバッカー)
 三代目  並河 研   (#65・ライン)
 四代目  鈴木 聡さん (#88・タイトエンド)
 五代目  鈴木 仁さん (#24・ディフェンスバック)
★六代目  池之上貴裕さん(#76・ライン)
 七代目  遠藤 紀彦さん(#39・ディフェンスライン、ラインバッカー)
 八代目  仲  益次さん(#27・ディフェンスバック)
 九代目  木下 雅英さん(#37・ディフェンスライン)
 十代目  遠藤 紀彦さん(#39・ラインバッカー)※2回目
★十一代目 庄子 達郎さん(#52・ディフェンスライン)
★十二代目 古庄 直樹さん(#2 ・ラインバッカー)

 (★=現役)


一人ひとりに対して語りだすときりがないが、、、。

 

初代主将は稲葉泰成さん。

シーガルズ魂の根源といえばこの人を置いてない。
アキレス腱を切ったまま1試合全プレイに出場したという伝説や、
初めての米軍との試合では、2メートルの相手ディフェンスに対して、
びびりまくる年下選手の代わりにセンターを務めたという逸話。


現役引退後も、フォアザチームの姿勢を貫き、裏方として何があっても、、
永子夫人ともに毎回の練習に必ず出席するという偉業は現在も続いている。

 

牧歌的なパレスサイドリーグ時代に、初めて「俺達は電通を倒して優勝するんだ!」と
闘志を見せた、二代目中谷主将。

 

グラウンドがまだ土だったころ、誰よりも先にきてグラウンド整備をしていた鈴木(聡)主将。

彼は、オービックシーガルズ(当時リクルートシーガルズ)が、
初めてアサヒビールシルバースターに引き分けた試合で、試合終了1秒前に
同点のタッチダウンパスをレシーブした男である。

 

その後を継いだ鈴木(仁)キャプテンは、

大学進学時に、関学や京都大学を倒すために近畿大学に入学したエピソードを持つ。

今かれは、近大の職員として近大のフットボール部のコーチもしている。


今も現役の池之上選手(とうとうチーム最年長になってしまった)は、
今まで何回も、

オフェンス、ディフェンス兼任でフルタイムプレイヤーとして試合に出場している。
彼は、日本で最初のNFL-E選手でもある。

1994年、私達が、アサヒビールシルバースターに初めて勝った試合では、

何度も敵の第4ダウンショートのギャンブルを阻止、鬼神のようにゴールを守った。

 

遠藤主将は、チームで最も在任期間が長い主将。

入部当時は、クオーターバックであったが、突進力が買われてランニングバックとなり、

さらにスタミナや破壊力、衰えない脚力、俊敏さが買われてディフェンスラインに転向。

1996年の松下電工戦では、圧倒的な破壊力で
松下電工のオフェンスを苦しめた。

 

この年、チームは初めて日本一となるが、
リーグ戦の序盤で鹿島ディアーズに負けたあとに“グレート・カムバック!”を掲げて
チームを引っ張ったのは、ほかでもない遠藤主将である。

 

その後、主将の気風は、、、

ディフェンスバック隊長として度重なる故障をものともせず、
チームをいつも盛りたてた仲 益次主将、

常にシュアなプレイでデイフェンスライン全体を底上げした木下主将、

そして三度目の日本一をとった庄子主将、

現在の古庄主将へと引き継がれてきた。

 

そうだ、いちど主将経験者飲み会でもやってみようか…。

 

2007年09月06日

最初の試合は明治大学ロードランナーズに大敗

ウォーミングアップをやっただけで、オービックシーガルズの記念すべき(?)
最初の練習が終わって、1ヵ月半後。

 

気持ちよい5月の風の中、リクルートシーガルズ(当時の名称)の面々は、
つま恋リゾートの中にあるグラウンドで、初めての試合を行っていた。

 

対戦相手は、明治大学の同好会ロードランナーズ


リクルートの全社行事である“スポーツフェスティバル”の一つの種目として
アメフトの試合を開催することに成功した私達は、明治大学の皆さんを
お招きして、初の試合をやれることになったのである。

 

 

とはいえ、例の最初の練習から、結局この日が2回目の全員集合。
試合前に隊形やフォーメーションをちょこちょこっと決めて、
即席チームで挑んだ結果は、当然の大敗。確かスコアは、0-35。
であったように記憶している。

 

初めての試合だから負けてガッカリか…というと
みんなそうでもない、むしろこれからチームがスタートするんだという
何かワクワク感で、試合後のハドルを終えたことも覚えている。

 

明治大学ロードランナーズの皆さん、お世話になりました。

 

ちなみに、のちに、このロードランナーズから

篠岡選手(現役時#58でラインバッカー、日本代表にも選ばれた)

吉沢選手(現役時#87でディフェンスライン)がリクルートシーガルズに入部してくれた。

 

さて、この年は、さすがにこれで終わりか、というとそうでもなく、
僕達は、パレスサイドリーグという社会人アメリカンフットボールの
同好会リーグに属することになった。


パレスサイドというだけあって、皇居周辺の企業で構成されていたこのリーグは、

1970年代ごろにスタートした老舗的な同好会リーグで、

今もXリーグや、X2リーグ、X3リーグなどで活躍していらっしゃるチームが、

既に堂々とチーム活動を行っており、僕達はその胸を借りるような格好で、

1試合1試合勉強させてもらっていた。


オリコミ広告
近藤忠商事
近鉄航空商事…今のクラブダイノス近鉄
トッパンムーア
富士銀行
ソニー
三菱電機…今のオール三菱ライオンズ
電通

など。

 

企業の顔ぶれはそうそうたるもので、
僕達が加盟する前には、三和銀行やIBMなども参加していたと聞いた。

試合もそれなりに熾烈な感じで楽しかったが、

何よりも、試合が終わってから、いろいろなチーム、社会人フットボーラーの
皆さんとの交流がもっと楽しかったし、為になった。

 

特に印象に残っているチームは、
電通キャタピラーズ。


当時パレスサイドリーグの中でもダントツに強く、
その上、みなさんの取り組み方も、
「まずは、仕事。そしてフットボール。プライドを持ってやり抜こう」

という気概が感じられた。

 

その後数年間、リクルートシーガルズは、この電通キャタピラーズを
打倒することを目標に執念を燃やし続けた。

 

このカップは、僕が主将になって、ようやく電通に手が届きそうになった
が結局敗れて準優勝に終わったときのものである。

 

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ろくに練習もしない、同好会の自分達ではあったが、
目標となるチームに負けることは本当に悔しい。

次は、来年は絶対勝ってやる!そういう想いで
このカップを受け取ったことを覚えている。

 

 

ちなみに、1984年は、日本のフットボール界にとっても大きな出来事があった。

 

今でこそ、日本選手権と呼ばれているライスボウルであるが、
1983年度までは、東西の大学選抜のオールスター戦であったのを、
大学代表と社会人(実業団)代表が戦う日本選手権・ライスボウルへと
変革された年であった。


記念すべき試合は、京都大学がレナウンローバーズを29-28で破るという
劇的なものであったが、当時の僕達は、そこからずーっと遠いところにいた。

 

シーガルズは会議室で生まれた…

昨日、2007年度のXリーグが開幕した。

 

開幕戦を飾ったのは、鹿島ディアーズ。52-3と東京ガスクリエイターズに圧勝。

試合内容は、チームの地力の差はあるものの、東京ガスが善戦していたように思う。

堂々たる鹿島ディアーズであるが、このチームは、1989年、鹿島建設の

創業150周年事業の一環として 創部されたチーム。歴史はまだ20年に満たない。

 

オービックシーガルズはというと、1983年に創部。来年25周年を迎える。

世の中の尺度で言えばこちらも若いほうであろう。

ただし、このチームの始まりから関わってきた一人の人間としてみれば、

25年もやってしまったのか、 という感も否めない。

ちなみに、今年25周年を迎える皆さんは、、、

カシオのG‐SHOCK

CD

スペースシャトル打ち上げ、

ソニー・ウォークマン…。

という感じではあるが…。

 (芸能人では、小泉今日子、コロッケ…)

 

さて、話を“始まり”に戻すと…

1983年、リクルートのアメフト同好会としてスタートした“シーガルズ”は、

チームの現顧問である稲葉泰成さんが中心人物であった。

私は、そのときは、筑波大学の4年生。

リクルートの内定者で、社内報を作るアルバイトをやっていた。

私とシーガルズの出会いは、その取材活動中に、ある会議室に呼ばれたら、

そこがリクルートシーガルズの決起集会であったという、 “たまたま”であった。

自己紹介をしてくれた稲葉さん、どこかで見た顔だなぁと思っていたら、

前年に、筑波大学と試合をした社会人のクラブチームで、

僕の対面(といめん)のポジションの人で、ガツンガツン当たりあった相手であった。

オフェンスガード対ラインバッカー。 なんという奇遇…。縁だなぁ…と思っているうちに、

いつのまにか、入部希望名簿にサインをしていたのである。

 

その年のリクルートシーガルズの活動は、なんとその決起集会だけで終わった。

いや、正確に言うと、みんなでウインドブレーカーを創った。

学生だった僕も1万円を払って買わせていただいた(買わされた)。

青いウインドブレーカーで背中にチーム名が書いてある。

 “SEAGALS”だ。???。“SEAGALSって、、、海のギャル?=海女?

「リクルートの社章って鴎だから、シーガルズだよね」

…って皆さんがおっしゃっていたのは覚えていたし、

先輩には、英語が理解できるはずの慶應大学や東京大学の出身の方々がいたのに…。

大学4年の僕は、海女ウインドブレーカーをそれでも嬉しそうに着ていた1983年の晩秋であった。

 

明けて1984年。

桜が咲いて、シーギャルズ(?!)も本格的に活動をスタート。

よし初練習だっ!ということで代々木の織田フィールドに集合したのは、8人。

(シーガルズ発進の地…織田フィールド

結局、ウォーミングアップの1つで“アジリティ”という練習をやっただけで、その日は終わった。

入部名簿に名前を連ねていたあとの20人は、どうしたんだ!?と、少し憤慨する僕とは裏腹に、

やけに楽しそうな先輩たちの顔を見て逆に不安…。

それが、シーガルズ発進の日であった。