並河 研GMブログ“日本から世界へ”

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2008年02月

2008年02月13日

2008シーズンイン “遠くを見よ”

「遠くを見よ」

 

昨年12月16日にチームで行なった2007年度納会の席で
久し振りに皆の前でスピーチをした。

 

思い返せば2007年も色々なことがあったが、
チームの勝利を信じて最後まで戦った仲間達に対して、
勝たせることができなかったという体の芯が焦げるような想いの中で、

もっともっと激しく戦わなければという、自らを奮い立たせるために

スピーチの時間をもらったという方が正しいかもしれない。

 

「遠くを見よ」とは、その席で私が皆に配布させてもらった、手紙である。

 

正確に言うと、高知の桂浜に立っている坂本竜馬の銅像の除幕式の際に、

故司馬遼太郎氏が坂本竜馬に宛てて書いた手紙のタイトルである。

 

全文は非常に長いものであるが、一気に紹介したい。
短い人生の中で、明治という時代、日本という国を開いた坂本竜馬に対して、

太平洋の彼方を見つめながら、これからもずーっと、世の人たちに

「遠くを見よ」というメッセージを送り続けて欲しいという司馬さんの願いが

込められている。

 

1983年に、同好会としてスタートしたシーガルズは、今年、
オービックシーガルズとして25歳を迎える。

 

25年間、私たちは「遠くを見て」頑張り続けてきたであろうか?


そしてこれからも「遠くを見て」頑張り続ける気概があるだろうか?

 

そのことが強烈に問われている。

 

 

1月末に社会人協会の理事会が行なわれた。

テーマは“社会人フットボールの今後について”。


私は、

「12年後の2020年にNFLと試合をする」
「22年後の2030年に日本国内において、
 アメフトプロリーグがきちんと産業化されている」
この2つを目標として提出した。

 

途方もない無謀な話かもしれない。
結果的に何年かかるかもわからない。


しかし“We choose to go to the moon”(ケネディ大統領)。
目的地を決めるからこそ旅といえるのではないか。

 

2008年2月9日、
オービックシーガルズの新たな旅が始まった。

 

 


※以下、本文中で紹介させていただきました司馬遼太郎さんの文章です。

謹んで全文を転載させていただきます。改行などは、私が個人の判断で
行ったものです。可能であれば、ぜひ、桂浜の坂本竜馬記念館を訪問

されることをお勧めいたします。そこでは、この全文がプリントアウトされて

無料配布されていると思います。

 

         ■■■■■以下全文■■■■■ 


銅像の竜馬さん、おめでとう。
あなたは、この場所を気に入っておられるようですね。
私もここが大好きです。
世界じゅうで、あなたが立つ場所はここしかないのではないかと、
私はここに来るたびに思うのです。

あなたもご存知のように、銅像という芸術様式は、
ヨーロッパで興って完成しました。
銅像の出来具合以上に、銅像がおかれる空間が大切なのです。
その点日本の銅像は、ほとんどが、所を得ていないのです。

昭和初年、あなたの後輩たちは、あなたを誘って、
この桂浜の巌頭に案内してきました。
この地が空間として美しいだけでなく、
風景そのものがあなたの精神をことごとく象徴しています。

大きく弓なりに白い線をえがく桂浜の砂は、
あなたの清らかさをあらわしています。
この岬は、地球の骨でできあがっているのですが、
あなたの動かざる志をあらわしています。

さらに絶えまなく岸うつ波の音は、
すぐれた音楽のように律動的だったあなたの精神の調べを
物語るかのようです。
そしてよくいわれるように、大きくひらかれた水平線は、
あなたのかぎりない大きさを、私どもに教えてくれているのです。

「遠くを見よ」
あなたの生涯は、無言に、私どもに、そのことを教えてくれました。

いまもそのことを諭すがように、
あなたは淼笵(びょうぼう)たる水のかなたと、
雲の色をながめているのです。

あなたをここで仰ぐとき、志半ばで斃れたあなたを、無限に悲しみます。
あなたがここではじめて立ったとき、
あなたの生前を知っていた老婦人が、
高知の町から一里の道を歩いてあなたのそばまできて
「これは竜馬さんぢゃ」とつぶやいたといいます。
彼女は、まぎれもないあなたを、もう一度見たのでした。

私は三十年前、ここに来て、はじめてあなたに会ったとき、
名状しがたい悲しみに襲われました。
そのときすでに、私はあなたの文章を通して、
精神の肉声を知っていましただけに、
そこにあなたが立ちあらわれたような思いをもちました。
「全霊をあげて、あなたの心を書く」
と、そのときつぶやいたことを、私はきのうのように憶えています。

それより少し前、まだ中国との間に国交がひらかれていなかった時期、
中国の代表団がここにきたそうですね。
十九世紀以来の中国は、ほとんど国の体をなさないほどに混乱し、
各国から食いあらされて、死体のようになっていました。

その中国をみずから救うには、風圧のつよい思想が必要だったのです。
自国の文明について自信のつよい中国人が、
そういう借り衣で満足していたはずはないのですが、
ともかくもその思想でもって、
中国人は、みずからの国を滅亡から救い出しました。

ですから、この場所であなたに会ったひとびとは、
そういう歴史の水と火をくぐってきたひとだったのでしょう。
そのなかの一人の女性代表が、あなたを仰いで泣いたといわれています。

その女性代表はあなたについて多くを知っているはずはないのですが、
あなたの風貌と容姿をみて、あなたのすべてと、
あなたの志、さらには人の生涯の尊さというものがわかったのです。

殷という中国におけるはるかな古代、殷のひとびとの信仰の中に、
旅人の死を傷む風習があったといわれています。
旅人はいずれの場合でも行き先という目的をもったひとびとです。
死せる旅人はそこへゆくことなく、地上に心を残したひとであります。

殷のひとびとはそういう旅人の魂を厚く祀りました。
この古代信仰は日本も古くから共有していて、
たとえば「残念様信仰」というかたちで、
むかしからいまにいたるまで、私どもの心に棲んでいます。

ふつう、旅人の目的は、その人個人の目的でしかありませんが、
それでも、かれらは、残念、念を残すのです。

あなたの目的は、あなた個人のものでなく、私ども日本人、もしくはアジア人、
さらにいえば人類のたれもに、共通する志というものでした。

あなたは、そういう私どものために、志をもちました。
そして、途半ばにして天に昇ったのです。
その無念さが、あなたの大きさに覆われている私どもの心を打ち、
かつ慄えさせ、そしてここに立たせるのです。

さらに私どもがここに立つもう一つのわけは、
あなたを悼むとともに、
あなたが、世界じゅうの青春をたえまなく鼓舞しつづけていることに、
よろこびをおぼえるからでもあります。

「志を持て」
たとえ中道で斃れようとも、志をもつことがいかにすばらしいかを、
あなたは、世界じゅうの若者に、
ここに立ちつづけることによって、無言で諭しつづけているのです。

きょうここに集った人々は、百年後には、もう地上にいないでせう。
あなただけはここにいます。
百年後の青春たちへも、どうかよろしく、というのが、
今日ここに集っているひとびとの願いなのです。
私の願いでもあります。

最後にささやかなことを祈ります。この場所のことです。
あなたをとりまく桂浜の松も、松をわたる松籟の音も、
あるいは岸打つ波の音も、人類と共に永遠でありますことを。

司馬 遼太郎

■昭和六十三年五月 
桂浜で行った龍馬先生銅像建設発起人物故者追悼会によせられた
司馬遼太郎氏のメッセージ