並河 研GMブログ“日本から世界へ”

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2007年11月

2007年11月10日

2年越しのグレートカムバック

11月4日、無事アサヒビールシルバースターに勝利し、
ファイナル6出場を果たすことができた。


思わぬ大勝となったが、フットボールにおいては、
時折そういう大差になることがある。

事実、昨年のリーグ戦では、

第4戦で富士通フロンティアーズに54-22で勝った。

ちなみに、その次の試合では、アサヒビールシルバースターに14-17で負けた。


その後、チームは下降線を辿り、長居で内外電機に大勝したものの、
準決勝でオンワードスカイラークスに逆転負けを喫し、連覇を逃した。

 

今年は、どうだろう、、、。
富士通に負けて、奮起してアサヒビールに勝った…。
とはいえ、リーグ戦終了時では、4勝1敗の2位、
という結果は昨年と変わらない。

 

チームとしては手応えを感じていると思うので、
迸る(ほとばしる)ものを大事にしながら、無心で練習を続けて、
11月19日の鹿島戦を迎えたい。


ちなみに、鹿島とは、通算7勝11敗でまだ負け越している。

ほとんどが1TD差以内の勝負を続けてきた。

11月19日も、厳しい闘いになると思うが、凌ぎ合いで勝ちたい。

 

さて、前回は、1996年の元祖グレートカムバックの話をしたが、
実は、もう一つ、“2年がかりのグレートカムバック”があったことに気づいた。

 

1997年から1998年のシーズンである。

 

1997年、
前年度に初の日本一となったオービックシーガルズ(リクルートシーガルズ)は、

日本一の余韻も冷めやらないまま、春のパールボウルを迎えてしまい、
大きな準備をすることなく、優勝してしまった。
決勝で対戦したのは、アサヒビールシルバースターであった。

 

「自分たちって、強いかも知れない」

 

口には出さないものの、
デイビッドスタントが苦労に苦労を重ねて育てた熱い雑草たちに加えて、
新入部員の勧誘がうまくいったことなどもあり、

前年の日本一に続いて春も優勝、チームの基盤が確立したのだと、

誰しもがホッとしたのだろう、
その秋、私たちはリーグ戦でまさかの敗退を喫する。

 

雨の川崎球場で、日産プリンスのオプション攻撃に翻弄され、
どうしても逆転できない。

試合終了間際にFGを試みるが失敗、27-28で敗れてしまう。

 

その敗戦は想像以上にチームにダメージを与え、
最終戦の鹿島に全てを賭けて臨んだが、13-17に終わる。
タッチダウンを狙ったQB松本選手からのパスが、
ゴールライン上でWR河本選手の手に入る寸前でこぼれ落ちた。
1997年、私たちは、3勝2敗で11月にシーズンオフを迎えることとなった。

 

「ぽっかり穴が開いたようね」
顧問の神山陽子さんの言葉が今でも耳に残っている。


1997年のシーズンオフ。11月のちょうど今頃、、
ヘッドコーチであるデイビッドスタントと監督の私、
ヘッドトレーナーの吉永さんと3人で、
長いシーズンオフをどうやってすごすかと思案した。

 

「UCLAに見学に行きたい!」

デイビッドが何かを決意したような顔で提案してきた。
11月だとアメリカのチームは、まだシーズン中、
しかもUCLAには、その頃クリニックなどでお世話になっていた
コーチの方々がいらっしゃるので、もしかしたら、
日本からの視察部隊を受け入れてくれるかも知れない。

勉強になるよ。
と、デイビッドがまくしたてる。

 

UCLAは、1970年代、1980年代ごろ日本にたくさん紹介された
あのUCLA。日本語にするとカリフォルニア大学ロサンゼルス校である。


しかも、1997年はローズボウルに出場できるかも知れなかった。
そんな強いチームが、シーズン中にどのような環境の中でどのような練習をして、

どのようなトレーニングをして、どのようなミーティングをしているのか、、、。

見てみたい…。
非常に興味を持った私は、じゃあ、主だったコーチ陣で行くことにして、

会社を説得した。

 

電光石火、私たちは、11月の中旬の1週間、ロサンゼルスに滞在。
デイビッドスタント、柳秀雄コーチ、松場俊夫コーチ、そして私の4人は、
毎日、ホテルとUCLAのグラウンドを往復して、練習を見学していた。

 

日本のXリーグから来た私たちは、1996年には日本チャンピオンであった、
と言っても、彼らにとっては、遠い東洋の国でアメフトをちょっとやってる程度、
でも何故か熱心な人たち、、、くらいに映っていた。

 

というわけで警戒されることもなく、

ミーティングルームにも自由に出入りでき、

練習もグラウンドで選手のすぐ近くで見ることができた。
時間さえ許せばコーチの人たちに何でも質問できた。
ミーティングルームにあるビデオテープも自由に見ることができた。


その上、空いた時間で、コーチ陣が順番に色々なことをレクチャーする

時間も創ってくれた。

 

「いやーこれはネタになるな」と当時の柳コーチや松場コーチが必死に
ビデオを見てはメモをとり、いろいろな質問をしていた。

 

残念ながら私は、あまり良く分からなかった。
ただ、試合と試合の間の1週間を本場のチームがどう過ごすのか、
彼らがどのような環境でフットボールしているのかは、
良く分かった。

私は、まだ本場アメリカで「○○ボウル」というのを観戦したことがないが、
何となくついていけるのは、このときの滞在が大きい。

気づいたことはいっぱいあるが、いくつかをランダムにピックアップしてみると、、

 

・アメリカの大学の体育局(アスレチックデパートメント)は、一つの事業部と言って良い。
・そのオフィスの半分を占めているのが、アメリカンフットボール。
・残りの半分の半分が、バスケットボール。
・そしてその残りの都合4分の1を様々な競技のブースで分けている 。

・アメリカの大学、そしてその大学がある州にとって、
 アメリカンフットボールは、大きなビジネスでありお祭りである。

 

・試合前の練習は、日本の大学でも導入しているようなスケジュールであり
 あまり特別なことはなかったが、

 対戦相手のダミーチームは、徹底して創られている。


 UCLAがその週末に対戦するのがワシントン大学だったので、
 そのユニフォームを身につけたダミーチームが登場してきた。
 (ちなみにダミーチームの主力選手は、スカラシップをあまりもらえていない
  人たちである、と聞かされた。アメリカでは同じ大学のチームでも
  スカラシップをもらっている人とそうでない人は、待遇が全て違う)

 それを試合形式の練習でコテンパンにやっつけるのである。

 やや芝居がかってはいるが、チーム全体でそういう雰囲気をきちんと

 作っているマネジメントには、徹底したものを感じた。 

 

・試合前の最後のミーティングが終わったら、チーム全員でバスに乗って、

 映画を観に行った。そしてそのままホテルに宿泊し、翌日試合という流れであった。

 映画は一体何を観たのかは知らないが、
 当然、モチベーションアップになるような映画であろう。

 

・試合は、UCLAの本拠地であるローズボウルスタジアムで行なわれた。

 8万人くらい入る会場の9割がLAの人たち、

 残りの1割がワシントンからやってきた人たち。


 同じアメリカ人であるが、今でいうJリーグのホームとアウェイと全く同じで、

 ワシントン大の応戦席は一ヶ所にまとめられ、両サイドを
 警官?警備の人?が囲んでいた。

 

・試合のハーフタイムには、
 フィールドと同じ大きさのアメリカの国旗が登場した。
 アメフトってやっぱり国威発揚スポーツなんだと改めて実感。
 何故か、ROCKYのシーンと重なる。

 

・試合が土曜日であったので、
 その週の火曜日、水曜日、木曜日は、
 毎朝7時から9時まで(もっと早朝だったかな…)大学のジムで
 全員が同じグレーのトレーニングウエアで黙々とウエイトトレーニングに
 励んでいた。和やかな風景など1つもない。
 190CMを超える大男の若者達が、
 朝7時とかに、ベンチプレスで200キロとか、
 スクワットで300キロ、とか、クリーンで100キロとかを
 黙々と上げ続けている。
 アメリカ国旗のシーンにこの場面もオーバーラップした。

 

・Xリーグで、朝7時から200キロのバーベルを上げる集団が
 いたら、間違いなくぶっちぎりで優勝であろう。

 

・後日談であるが、何故朝からトレーニングをするのかというと、
 前日の夜、選手たちが遊びすぎないようにするためである、
 と聞いた。アメリカだ。やっぱり…。


思い出し始めるときりがない…。

ものすごく収穫のあった1週間であった。


帰国後早々、デイビッドと私は、
UCLAのミーティングルームのシステムを取り入れようと、
千葉のグラウンドのミーティング室の改修に取りかかったほどである。

 

この1週間の海外研修の次に私たち3人が打ち出したのは、
後々まで語り継がれることになる“QUEST研修”であった。