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11年目のベストシーズン 寺田隆将
2009年04月30日
1998年の入部から一貫してFS(フリーセーフティ)。 1年目からスターターとして活躍、
その座を引退まで譲らなかった。 現役最後の年となった2008年、11年目にして
ALL Xリーグに選出された。
ディフェンスの最後の砦を担い続け、常にチーム視点で行動し続けてきた男の葛藤、
モチベーションを紹介します。 少し長いかもしれませんが、最後まで読んでいただけると、
寺田という男がどんな男なのかが分かるかと思います。
-------- INTERVIEW --------------------------------------------------------------
■関西の友人に証明したい
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大学4年(大阪市立大学)、同率優勝の神戸大と入れ替え戦進出をかけた、最後の試合だった。4Q残り2分で足首の靭帯を断裂。逆転のドライブをサイドラインで見届けるしかなかった。当然、やりきった感はなく、悔しさと怪我を抱えて即入院。そこで他チームの同級生と出会った。彼は卒業後、関西の強豪社会人チームでプレーするという。同じ病院で過ごし、一緒に遊ぶようになった。春には、彼の試合を見にいくようになり、やり残した気持ちが湧き出てきた。
そんなとき脳裏をよぎったのが、数ヵ月前に見たライスボウル、京都大学vsリクルート。
たかがキックカバーで大はしゃぎしている#27仲 益史。「なんであんなに楽しそうなんやろ」。
社会人でやるんだったら、もちろん強いチームでやりたい。それ以上に、フットボールを本当の
意味で楽しんでやりたかった。それは、大学ではチームを創り上げることに専念し、なかなか
自分のプレーが表現しきれなかったというやり残し感と、ただ単純に、関西の友人に負けたくない
という負けず嫌いの表れでもあった。
大学をあえて卒業せず、5年目の大学生活を送っていたある日、大学のコーチに「社会人で
やらないのか」と聞かれ、何気にふと「シーガルズが面白そうですね」と答えていた。当時の
リクルートのエースWR河本 晃が大学のOBだった縁もあり、翌1998年、チームの一員となった。
「荒々しいが、光るものがある」-入部当初、#27仲に言われた。お世辞にも上手いとは
言えなかったろう。北海道での夏合宿で、RBのフラットのパスをインパクトのあるタックルで
仕留めた。「これをしたらいけない」という最低限のライン、ルールだけは押さえ、その上で
どれだけハードにいけるか常に考えていた。そんな姿勢をコーチが見ていてくれたんだと思う。
そして、何よりも試合に出るモチベーションを高めたのが、関西リーグで活躍する友人の存在。
彼に負けたくなかった。関西の他の友人たちも、シーガルズでプレーすることを応援してくれて
いる半面、「お前は日本一のチームで本当に試合に出られるのか」-そんな目で見ているとも
感じていた。だから、自分のプレーを見せたかったし、自分ができることを証明したかった。
関西での試合では特に活躍したかった。1年目のFinal4@長居競技場、アサヒ飲料戦。
前節で大腿部の肉離れを負っていたが、無理を押して試合に出た。友人たちの目の前で
インターセプトをすることで、自分の存在を証明した。
■ずっと「重かった」
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先輩とのスターター争いも激しかった。当時、練習で加算されたポイントが高い選手が
スタートで試合に出られるシステムだった。リーグ4戦目、鹿島との戦い。リベンジに燃える
大事な試合で、先輩の方がポイントが高いにも関わらず、自分がスターターとなった。
納得できずコーチに尋ねた。「なんで自分の方が点数が低いのに、スタートなんですか」。
コーチは、「確かにお前のほうが点数は低いが、総合的に判断してお前を使いたい」と
言ってくれた。自分の存在を認めてもらえ、期待してもらっている。自分の可能性に賭けて
くれたことが自信になった。
そこからずっと11年、スターターの座を譲らなかった。2年目以降、特に先輩が引退してからは
ずっと、重かった。やりたい!と思ってプレーをしていた1年目と比べると、「やらなきゃならない」と
思いながらプレーすることのほうが多かった。毎シーズン後、コーチには胸の内を明かしていた。
自分が守らなきゃならないと自覚はしていた。「最後尾は寺田が守ってくれる」という仲間の信頼と、
それに対する責任感。ありがたいことだけど、重圧がのしかかる。そんな中で、自分がどれだけ
プレーを楽しめるかが課題だった。
1年目はスターターになり、日本一になり、一番のモチベーションであった関西の友人たちに
自分ができることを証明できた。でも、2年目はそのモチベーションはもうない。1年目で
多くのものを手にしすぎてしまった。そこで、自分と向き合い、何のためにアメフトをしているのか
をよく考えるようになった。勝ちたい、日本一になりたいということよりも、みんなで戦い抜きたい、
みんなが信頼してくれるからプレーできる、チームが勝つために自分は高いパフォーマンスを
どう出すか、そんなことを考えていた。自分のパフォーマンスを上げることもひとつの
モチベーションではあったが、いつしか、それ以上にチームメートの喜びが自分の
モチベーションとなっていった。もしかしたら、立場がそうさせたのかもしれない。副将や
ポジションリーダーになり、自分のことだけやればいい存在ではなくなっていた。誰もそんな
期待はしていなかったのかもしれないが、自然にそうなっていたのだと思う。
シーガルズの中でモチベーションの起伏があったとしたら、2003年春シーズンに膝の靭帯を
切って半年棒に振ったとき。せっかくだからと割り切って、学校に通い、建築士の資格を取りに
いっていた。でも帰ってきたら金子が成長していて、彼が夏合宿でMVPを取った。金子に負ける
ことだけは許されない。復帰してから必死に取り組んだ。これがきっかけで、また自分の
ステージが上がったのかもしれない。久しぶりに、1年目の、先輩とのスタート争いを思い出した。
■最終年がベストシーズン
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重圧を乗り越えてどれだけ楽しめるかを追い求めた。ようやくその域に到達したのが11年目。去年がまさにベストシーズンだった。去年は気持ちの持ち方が変わったのかもしれない。1年目に近い気持ちでプレーができたんだと思う。今年で終わりにしよう、と決めていたところもあり、最後は凄いものをチームのみんなやファンの皆さんに見せたいと思っていた。結果はどうであれ、自分のパフォーマンスを見せたいという気持ちが強かった。チームの納会で話したことだけど、「今年はこれをやる」と決めて自分を主語にしてやったことが満足いく結果につながったのが、昨ーズンだった。チームはFinal6で負けたけど、自分の中ではやり切った。
■2001年、クラブチーム化
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一番大きなターニングポイントは、2001年のクラブチーム化だったと思う。それまではアメフトが
やりたいという思いだけを優先させていた。言ってしまえば、ろくに仕事もしていなかった2年間
だった。チームがクラブチーム化されてスポンサーが離れるとなったとき、企業チームでなくなる
のであれば、仕事を辞めようと思っていた。いろいろな人に相談したり、話を聞いたりして
いろいろな可能性を探っていた。そんな中、関西の親友に会社を辞める話をしたときだった。
彼は真剣に怒った。「お前は会社からお金をもらっていて、それを返すくらいの働きはしたのか」。
仕事に対する意識を変えてくれたひと言だった。
チームに対しての意識も変えてくれた。それまで、自分が今プレーできているのは企業に
支えられているからという意識が薄かった。自分たちは企業(スポンサー)や周囲の人々に
支えられている。その分を今まで以上にチームや社会に対して何らかの形で返さなければ
ならない、特にプレーで返さなければならないと思うようになった。プレーはそれまでも全力で
やっていたので、これ以上取り組み方を変えるという感覚はあまりなかったが、仕事に対する
姿勢が大きく変わった。例えば、金曜の深夜3時まで働いても、翌日の練習ではパフォーマンスを
出さなければならないと思うようになったし、平日なかなかトレーニングの時間が作れなくても、
1時間だけでも時間が空いたらトレーニングに行って、また戻って仕事するとか。
それまでは100がすべてだと思っていた。アメフトは90で仕事が10。でもこれを機に、
アメフトするときはアメフト100、仕事するときは仕事100、遊ぶときは遊び100。常に全力。
そう考えるようになって人生が楽しくなった。そんなふうに過ごしてきたから、今は休みの日が
気持ち悪いし、何かしていないと死んでしまうと思ってしまう。よく生き急いでいると言われるが、
それでもいい。
■「楽しむ」ための準備も楽しむ
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1年目から常に「楽しむ」という言葉を自分自身にもチームにも投げかけてきた。1年目は自分が「楽しむ」という意識が強かった。でも2年目以降は「楽しむ」といいながら、楽しめていなかった。だから自分に「楽しむ」という言葉を投げかけていたのかもしれない。そして2008年シーズン、再び1年目と同じように主語が自分となったときに「楽しむ」ことができたのかもしれない。
試合で「楽しむ」ためには、事前準備が必要。キツい練習で自分と戦い、その戦いも楽しむ。キツい走りものの練習でも、ただがむしゃらに走るだけ
ではなく、常にフットボールを意識していたし、練習メニューひとつとっても、自分の追い求める
イメージ、理想の絵を常に脳裏に焼き付けていて、そこにたどり着くためにどうしたらいいのか
自答自問を繰り返した。自分の動きをビデオで見て、理想のイメージに全然追いついていない
ことに落胆し、でも昨日より今日が少しでも理想に近づくためには何が足りないのかを具体化して、
それを克服する作業を行う。そんなことを11年、繰り返しやってきた。そして、試合では何も
考えずにフィールドに立つ。でも、未だに自分の理想のイメージには程遠いですけどね。
自分がインターセプトしたり、ボールを奪ったりした時の印象は残っているけど、一番楽しいか
というと、それはまた違う気がする。一番楽しいと感じるのは、みんなの一体感を感じたとき。
だから常にみんなに一体感を意識する声をかけてきた。フィールドでも、ピンチのときや
雰囲気が悪いときこそ、「これを止めたらヒーローだ!」とか「むしろココがチャンスだ!」と
チームメートを鼓舞してきた。その声でみんなの気持ちがひとつになるのを感じた瞬間は
うれしいし、面白かった。例えば、いつかの東京ドームでの鹿島戦、1stダウン残り1ヤード。
フィールドにいた選手全員が絶対に止める、止められる、とひとつになって、実際に3回止めて
フィールドゴールに押さえたときは最高に楽しかった。自分がチームを盛り上げていると
感じているときは、大半がチームは受け身な状態。好きで盛り上げているのではなく、
仕方なく盛り上げているだけだ。一方、一人ひとりが自発的に同じ方向に向いているときは、
勝っていようが負けていようが盛り上がる。例えば2005年のJXBのような雰囲気は、
最高に気持ちよかった。自分も盛り上げる言葉を言ったし、それにみんなが乗ってくれた。
一人ひとりが自発的だったし、それが結果としてつながったいい試合だった。
シーガルズでは、前向きに取り組むことが大事だと学んだ。やるんだったら楽しんで徹底的に
やる。大学の時は、自分に目標を掲げてプレッシャーをかけて追い込んでいた。そこを楽しむ
領域にはたどり着けてなかった。シーガルズでは、どうせやるんだったら楽しんでやろう!と。
以前のキャプテン遠藤さんの「まずやってみようよ」「自分もやるからみんなもやろうよ」という、
自分が主語のスタンスにも大きな影響を受けた。「やれ!」とは決して言わない。そういう
考え方は素晴らしいと思った。絶対に後ろ向きな発言はしないし、やらなければならない
ということも言わない。「男だったらやろう!」と遠藤さんが言ったら、「やってみるか!」という
気持ちになった。素晴らしい人だと思う(酒の場を除く)。
■NPOでの新たなチャレンジ
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これからも、止まってしまったら生きてる意味がなくなるので、動き続ける。数年前からフラッグフットボールのNPO法人を運営しているので、普及にさらに力を入れていこうと考えている。
ひとつは、相模原RISE(旧オンワードオークス)でフラッグフットボールチームを立ち上げて、力になりたいと考えている。僕らが2001年にクラブチーム化したときよりも、彼らはもっとドラスティックに環境が変化した。僕らも当時、選手がスポンサーを集めようと行動したけれど、当時は力がなかった
から何も変えることができなかった。でも、あれから8年が経ち、自分も少しは成長した。 NPO法人の
活動も、ほんの少しずつではあるけれど形になってきている。 その経験を活かして、今は、
少しは力になれるのではないか。新たなチャレンジでもある。先日、相模原RISEの選手たちが
実際どんなことを考えて、どんなことをやっているのか知りたくて、練習を見に行った。彼らは
練習の前後に、ゴミ拾いのボランティア活動をやるので集まってほしいとか、フラッグフットボールの
イベントをするので集まってほしいとか、そういうコミュニケーションが普通にあった。地域に
根ざしたチームを作り、チームをよくしたいという意欲があることを感じた。みんなが同じ方向を
向いて、一人ひとりが主体的に関わっている。そんな彼らの力になりたい。
■押しつける気は全くないけれど
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今いる選手やスタッフが、新しいオービックシーガルズの文化やよさを創っていくんだと思うから、
これからのチームへの期待をひと言で言うのは難しい。取り巻く環境は変化していくけれど、
今まで大事にしてきた「強く、愛される、開かれたチーム」というスピリットは忘れてほしくないな
とは思う。ファンや地域の皆さんに愛されるチーム、選手であり続けてほしいし、一社会人としても、
プライドを持てる人間であってほしい。まあ、押しつける気は全くないけどね。このチームは
絶対に存在し続けてほしいとみんなが思ってくれるチームであり続けてほしいと思うし、そういう
チームをみんなで創っていってくれることを期待しています。 (談)
11年間、同じフィールドで戦いながら、彼の葛藤に気付くことはなかった。ずっとプレッシャーを内に秘めていたのだろう。弱みを見せない彼らしいとも思った。常にチーム視点で全体を見渡す発言、行動はまさにフリーセーフティ。生き方も、考え方もオービックシーガルズのFSというポジションが彼に一番ふさわしい。これからの人生も「楽しむ」を求めて止まることなく進んでいくのだろう。11年間、寺田のおかげで攻めることができました。ありがとう。これからもよろしく。 |