2007年09月
2007年09月11日
初代キャプテンは現顧問の稲葉さん
チームとして活動していく為に必要なものは何か?
という問いに対して、勝利を至上とするスポーツにおいては、
まず選手、そしてコーチ、練習環境と続く。
かつて監督として学生援護会ROCBULL(現ROCBULL)
を率いていらっしゃった頃の輪島さんにお聞きしたときには、
「選手、稽古、土俵=グラウンド」と即座に返答されたのを覚えている。
私は、中でも“キャプテンの存在”をあげたい。
ラグビーではキャプテンシーという言葉で語られている。
確かに、試合が始まれば、
フィールドの中にいる選手だけで戦い抜くしかない(厳密に言うと違うが…)
ラグビーにおいては、
キャプテンシーが重要な位置を占めているのは自明であるが、
アメリカンフットボールにおけるキャプテンは、そのチームの「意志=WILL」、
魂、SOULを象徴する存在として、何よりも重要であると思う。
オフェンスとディフェンスの分業制が主流を占めるアメフトでは、
キャプテンが常にフィールドに居るとは限らない。
さらに、キャプテンがプレイしているところを多くのレギュラー陣が凝視している場面も多い。
だからこそ「おぉー!!」と衆目を唸らせるプレイを有言実行できる人が
キャプテンに相応しいと思う。
また、チームが勝つためにもっとも必要な存在は「キャプテン」ではないかと思う所以である。
練習やミーティング、あるいは、ユニフォームを脱いだ普段の生活の中で、
チームのことを一番想い、チーム創りに精を出し、チームの勝利に貢献することも、
もちろんキャプテンの素養、基本行動として必要である。でもそれは、コーチでもできる。
選手全員がやれば済むことでもある。
しかし、フィールドにいる選手全員を覚醒させ、つき動かすのは、
紙に書いた戦略やコーチの言葉以上に、たった1つのプレイである。
それをできるのがキャプテンである。
かつて、サッカーのワールドカップ予選で、敗色が濃い中でも、
最後まで希望を失わずボールを追いかけ、ゴールを目指した
中山ゴン選手の姿に、多くの日本人が、
日本のサッカーの熱い想いを感じたのではないだろうか。
誰よりも、オービックシーガルズらしいプレイを
試合の最初から最後まで、シーズンの最初から最後まで
手を抜かないでやり抜ける人。それを見た人が
オービックシーガルズとは、そういうチームであると
納得してしまうプレイをできる人。
それがキャプテンである。
歴代のキャプテンは、延べ11人。
初代 稲葉 泰成さん(#66・ライン)
二代目 中谷 英喜さん(背番号…調査中。ラインバッカー)
三代目 並河 研 (#65・ライン)
四代目 鈴木 聡さん (#88・タイトエンド)
五代目 鈴木 仁さん (#24・ディフェンスバック)
★六代目 池之上貴裕さん(#76・ライン)
七代目 遠藤 紀彦さん(#39・ディフェンスライン、ラインバッカー)
八代目 仲 益次さん(#27・ディフェンスバック)
九代目 木下 雅英さん(#37・ディフェンスライン)
十代目 遠藤 紀彦さん(#39・ラインバッカー)※2回目
★十一代目 庄子 達郎さん(#52・ディフェンスライン)
★十二代目 古庄 直樹さん(#2 ・ラインバッカー)
(★=現役)
一人ひとりに対して語りだすときりがないが、、、。
初代主将は稲葉泰成さん。
シーガルズ魂の根源といえばこの人を置いてない。
アキレス腱を切ったまま1試合全プレイに出場したという伝説や、
初めての米軍との試合では、2メートルの相手ディフェンスに対して、
びびりまくる年下選手の代わりにセンターを務めたという逸話。
現役引退後も、フォアザチームの姿勢を貫き、裏方として何があっても、、
永子夫人ともに毎回の練習に必ず出席するという偉業は現在も続いている。
牧歌的なパレスサイドリーグ時代に、初めて「俺達は電通を倒して優勝するんだ!」と
闘志を見せた、二代目中谷主将。
グラウンドがまだ土だったころ、誰よりも先にきてグラウンド整備をしていた鈴木(聡)主将。
彼は、オービックシーガルズ(当時リクルートシーガルズ)が、
初めてアサヒビールシルバースターに引き分けた試合で、試合終了1秒前に
同点のタッチダウンパスをレシーブした男である。
その後を継いだ鈴木(仁)キャプテンは、
大学進学時に、関学や京都大学を倒すために近畿大学に入学したエピソードを持つ。
今かれは、近大の職員として近大のフットボール部のコーチもしている。
今も現役の池之上選手(とうとうチーム最年長になってしまった)は、
今まで何回も、
オフェンス、ディフェンス兼任でフルタイムプレイヤーとして試合に出場している。
彼は、日本で最初のNFL-E選手でもある。
1994年、私達が、アサヒビールシルバースターに初めて勝った試合では、
何度も敵の第4ダウンショートのギャンブルを阻止、鬼神のようにゴールを守った。
遠藤主将は、チームで最も在任期間が長い主将。
入部当時は、クオーターバックであったが、突進力が買われてランニングバックとなり、
さらにスタミナや破壊力、衰えない脚力、俊敏さが買われてディフェンスラインに転向。
1996年の松下電工戦では、圧倒的な破壊力で
松下電工のオフェンスを苦しめた。
この年、チームは初めて日本一となるが、
リーグ戦の序盤で鹿島ディアーズに負けたあとに“グレート・カムバック!”を掲げて
チームを引っ張ったのは、ほかでもない遠藤主将である。
その後、主将の気風は、、、
ディフェンスバック隊長として度重なる故障をものともせず、
チームをいつも盛りたてた仲 益次主将、
常にシュアなプレイでデイフェンスライン全体を底上げした木下主将、
そして三度目の日本一をとった庄子主将、
現在の古庄主将へと引き継がれてきた。
そうだ、いちど主将経験者飲み会でもやってみようか…。
2007年09月06日
最初の試合は明治大学ロードランナーズに大敗
ウォーミングアップをやっただけで、オービックシーガルズの記念すべき(?)
最初の練習が終わって、1ヵ月半後。
気持ちよい5月の風の中、リクルートシーガルズ(当時の名称)の面々は、
つま恋リゾートの中にあるグラウンドで、初めての試合を行っていた。
対戦相手は、明治大学の同好会ロードランナーズ。
リクルートの全社行事である“スポーツフェスティバル”の一つの種目として
アメフトの試合を開催することに成功した私達は、明治大学の皆さんを
お招きして、初の試合をやれることになったのである。
とはいえ、例の最初の練習から、結局この日が2回目の全員集合。
試合前に隊形やフォーメーションをちょこちょこっと決めて、
即席チームで挑んだ結果は、当然の大敗。確かスコアは、0-35。
であったように記憶している。
初めての試合だから負けてガッカリか…というと
みんなそうでもない、むしろこれからチームがスタートするんだという
何かワクワク感で、試合後のハドルを終えたことも覚えている。
明治大学ロードランナーズの皆さん、お世話になりました。
ちなみに、のちに、このロードランナーズから
篠岡選手(現役時#58でラインバッカー、日本代表にも選ばれた)
吉沢選手(現役時#87でディフェンスライン)がリクルートシーガルズに入部してくれた。
さて、この年は、さすがにこれで終わりか、というとそうでもなく、
僕達は、パレスサイドリーグという社会人アメリカンフットボールの
同好会リーグに属することになった。
パレスサイドというだけあって、皇居周辺の企業で構成されていたこのリーグは、
1970年代ごろにスタートした老舗的な同好会リーグで、
今もXリーグや、X2リーグ、X3リーグなどで活躍していらっしゃるチームが、
既に堂々とチーム活動を行っており、僕達はその胸を借りるような格好で、
1試合1試合勉強させてもらっていた。
オリコミ広告
近藤忠商事
近鉄航空商事…今のクラブダイノス近鉄
トッパンムーア
富士銀行
ソニー
三菱電機…今のオール三菱ライオンズ
電通
など。
企業の顔ぶれはそうそうたるもので、
僕達が加盟する前には、三和銀行やIBMなども参加していたと聞いた。
試合もそれなりに熾烈な感じで楽しかったが、
何よりも、試合が終わってから、いろいろなチーム、社会人フットボーラーの
皆さんとの交流がもっと楽しかったし、為になった。
特に印象に残っているチームは、
電通キャタピラーズ。
当時パレスサイドリーグの中でもダントツに強く、
その上、みなさんの取り組み方も、
「まずは、仕事。そしてフットボール。プライドを持ってやり抜こう」
という気概が感じられた。
その後数年間、リクルートシーガルズは、この電通キャタピラーズを
打倒することを目標に執念を燃やし続けた。
このカップは、僕が主将になって、ようやく電通に手が届きそうになった
が結局敗れて準優勝に終わったときのものである。
ろくに練習もしない、同好会の自分達ではあったが、
目標となるチームに負けることは本当に悔しい。
次は、来年は絶対勝ってやる!そういう想いで
このカップを受け取ったことを覚えている。
ちなみに、1984年は、日本のフットボール界にとっても大きな出来事があった。
今でこそ、日本選手権と呼ばれているライスボウルであるが、
1983年度までは、東西の大学選抜のオールスター戦であったのを、
大学代表と社会人(実業団)代表が戦う日本選手権・ライスボウルへと
変革された年であった。
記念すべき試合は、京都大学がレナウンローバーズを29-28で破るという
劇的なものであったが、当時の僕達は、そこからずーっと遠いところにいた。
シーガルズは会議室で生まれた…
昨日、2007年度のXリーグが開幕した。
開幕戦を飾ったのは、鹿島ディアーズ。52-3と東京ガスクリエイターズに圧勝。
試合内容は、チームの地力の差はあるものの、東京ガスが善戦していたように思う。
堂々たる鹿島ディアーズであるが、このチームは、1989年、鹿島建設の
創業150周年事業の一環として 創部されたチーム。歴史はまだ20年に満たない。
オービックシーガルズはというと、1983年に創部。来年25周年を迎える。
世の中の尺度で言えばこちらも若いほうであろう。
ただし、このチームの始まりから関わってきた一人の人間としてみれば、
25年もやってしまったのか、 という感も否めない。
ちなみに、今年25周年を迎える皆さんは、、、
カシオのG‐SHOCK、
CD、
スペースシャトル打ち上げ、
ソニー・ウォークマン…。
という感じではあるが…。
(芸能人では、小泉今日子、コロッケ…)
さて、話を“始まり”に戻すと…
1983年、リクルートのアメフト同好会としてスタートした“シーガルズ”は、
チームの現顧問である稲葉泰成さんが中心人物であった。
私は、そのときは、筑波大学の4年生。
リクルートの内定者で、社内報を作るアルバイトをやっていた。
私とシーガルズの出会いは、その取材活動中に、ある会議室に呼ばれたら、
そこがリクルートシーガルズの決起集会であったという、 “たまたま”であった。
自己紹介をしてくれた稲葉さん、どこかで見た顔だなぁと思っていたら、
前年に、筑波大学と試合をした社会人のクラブチームで、
僕の対面(といめん)のポジションの人で、ガツンガツン当たりあった相手であった。
オフェンスガード対ラインバッカー。 なんという奇遇…。縁だなぁ…と思っているうちに、
いつのまにか、入部希望名簿にサインをしていたのである。
その年のリクルートシーガルズの活動は、なんとその決起集会だけで終わった。
いや、正確に言うと、みんなでウインドブレーカーを創った。
学生だった僕も1万円を払って買わせていただいた(買わされた)。
青いウインドブレーカーで背中にチーム名が書いてある。
“SEAGALS”だ。???。“SEAGALSって、、、海のギャル?=海女?
「リクルートの社章って鴎だから、シーガルズだよね」
…って皆さんがおっしゃっていたのは覚えていたし、
先輩には、英語が理解できるはずの慶應大学や東京大学の出身の方々がいたのに…。
大学4年の僕は、海女ウインドブレーカーをそれでも嬉しそうに着ていた1983年の晩秋であった。
明けて1984年。
桜が咲いて、シーギャルズ(?!)も本格的に活動をスタート。
よし初練習だっ!ということで代々木の織田フィールドに集合したのは、8人。
(シーガルズ発進の地…織田フィールド)
結局、ウォーミングアップの1つで“アジリティ”という練習をやっただけで、その日は終わった。
入部名簿に名前を連ねていたあとの20人は、どうしたんだ!?と、少し憤慨する僕とは裏腹に、
やけに楽しそうな先輩たちの顔を見て逆に不安…。
それが、シーガルズ発進の日であった。