2009年04月
2009年04月30日
11年目のベストシーズン 寺田隆将
1998年の入部から一貫してFS(フリーセーフティ)。 1年目からスターターとして活躍、
その座を引退まで譲らなかった。 現役最後の年となった2008年、11年目にして
ALL Xリーグに選出された。
ディフェンスの最後の砦を担い続け、常にチーム視点で行動し続けてきた男の葛藤、
モチベーションを紹介します。 少し長いかもしれませんが、最後まで読んでいただけると、
寺田という男がどんな男なのかが分かるかと思います。
-------- INTERVIEW --------------------------------------------------------------
■関西の友人に証明したい
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大学4年(大阪市立大学)、同率優勝の神戸大と入れ替え戦進出をかけた、最後の試合だった。4Q残り2分で足首の靭帯を断裂。逆転のドライブをサイドラインで見届けるしかなかった。当然、やりきった感はなく、悔しさと怪我を抱えて即入院。そこで他チームの同級生と出会った。彼は卒業後、関西の強豪社会人チームでプレーするという。同じ病院で過ごし、一緒に遊ぶようになった。春には、彼の試合を見にいくようになり、やり残した気持ちが湧き出てきた。
そんなとき脳裏をよぎったのが、数ヵ月前に見たライスボウル、京都大学vsリクルート。
たかがキックカバーで大はしゃぎしている#27仲 益史。「なんであんなに楽しそうなんやろ」。
社会人でやるんだったら、もちろん強いチームでやりたい。それ以上に、フットボールを本当の
意味で楽しんでやりたかった。それは、大学ではチームを創り上げることに専念し、なかなか
自分のプレーが表現しきれなかったというやり残し感と、ただ単純に、関西の友人に負けたくない
という負けず嫌いの表れでもあった。
大学をあえて卒業せず、5年目の大学生活を送っていたある日、大学のコーチに「社会人で
やらないのか」と聞かれ、何気にふと「シーガルズが面白そうですね」と答えていた。当時の
リクルートのエースWR河本 晃が大学のOBだった縁もあり、翌1998年、チームの一員となった。
「荒々しいが、光るものがある」-入部当初、#27仲に言われた。お世辞にも上手いとは
言えなかったろう。北海道での夏合宿で、RBのフラットのパスをインパクトのあるタックルで
仕留めた。「これをしたらいけない」という最低限のライン、ルールだけは押さえ、その上で
どれだけハードにいけるか常に考えていた。そんな姿勢をコーチが見ていてくれたんだと思う。
そして、何よりも試合に出るモチベーションを高めたのが、関西リーグで活躍する友人の存在。
彼に負けたくなかった。関西の他の友人たちも、シーガルズでプレーすることを応援してくれて
いる半面、「お前は日本一のチームで本当に試合に出られるのか」-そんな目で見ているとも
感じていた。だから、自分のプレーを見せたかったし、自分ができることを証明したかった。
関西での試合では特に活躍したかった。1年目のFinal4@長居競技場、アサヒ飲料戦。
前節で大腿部の肉離れを負っていたが、無理を押して試合に出た。友人たちの目の前で
インターセプトをすることで、自分の存在を証明した。
■ずっと「重かった」
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先輩とのスターター争いも激しかった。当時、練習で加算されたポイントが高い選手が
スタートで試合に出られるシステムだった。リーグ4戦目、鹿島との戦い。リベンジに燃える
大事な試合で、先輩の方がポイントが高いにも関わらず、自分がスターターとなった。
納得できずコーチに尋ねた。「なんで自分の方が点数が低いのに、スタートなんですか」。
コーチは、「確かにお前のほうが点数は低いが、総合的に判断してお前を使いたい」と
言ってくれた。自分の存在を認めてもらえ、期待してもらっている。自分の可能性に賭けて
くれたことが自信になった。
そこからずっと11年、スターターの座を譲らなかった。2年目以降、特に先輩が引退してからは
ずっと、重かった。やりたい!と思ってプレーをしていた1年目と比べると、「やらなきゃならない」と
思いながらプレーすることのほうが多かった。毎シーズン後、コーチには胸の内を明かしていた。
自分が守らなきゃならないと自覚はしていた。「最後尾は寺田が守ってくれる」という仲間の信頼と、
それに対する責任感。ありがたいことだけど、重圧がのしかかる。そんな中で、自分がどれだけ
プレーを楽しめるかが課題だった。
1年目はスターターになり、日本一になり、一番のモチベーションであった関西の友人たちに
自分ができることを証明できた。でも、2年目はそのモチベーションはもうない。1年目で
多くのものを手にしすぎてしまった。そこで、自分と向き合い、何のためにアメフトをしているのか
をよく考えるようになった。勝ちたい、日本一になりたいということよりも、みんなで戦い抜きたい、
みんなが信頼してくれるからプレーできる、チームが勝つために自分は高いパフォーマンスを
どう出すか、そんなことを考えていた。自分のパフォーマンスを上げることもひとつの
モチベーションではあったが、いつしか、それ以上にチームメートの喜びが自分の
モチベーションとなっていった。もしかしたら、立場がそうさせたのかもしれない。副将や
ポジションリーダーになり、自分のことだけやればいい存在ではなくなっていた。誰もそんな
期待はしていなかったのかもしれないが、自然にそうなっていたのだと思う。
シーガルズの中でモチベーションの起伏があったとしたら、2003年春シーズンに膝の靭帯を
切って半年棒に振ったとき。せっかくだからと割り切って、学校に通い、建築士の資格を取りに
いっていた。でも帰ってきたら金子が成長していて、彼が夏合宿でMVPを取った。金子に負ける
ことだけは許されない。復帰してから必死に取り組んだ。これがきっかけで、また自分の
ステージが上がったのかもしれない。久しぶりに、1年目の、先輩とのスタート争いを思い出した。
■最終年がベストシーズン
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重圧を乗り越えてどれだけ楽しめるかを追い求めた。ようやくその域に到達したのが11年目。去年がまさにベストシーズンだった。去年は気持ちの持ち方が変わったのかもしれない。1年目に近い気持ちでプレーができたんだと思う。今年で終わりにしよう、と決めていたところもあり、最後は凄いものをチームのみんなやファンの皆さんに見せたいと思っていた。結果はどうであれ、自分のパフォーマンスを見せたいという気持ちが強かった。チームの納会で話したことだけど、「今年はこれをやる」と決めて自分を主語にしてやったことが満足いく結果につながったのが、昨ーズンだった。チームはFinal6で負けたけど、自分の中ではやり切った。
■2001年、クラブチーム化
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一番大きなターニングポイントは、2001年のクラブチーム化だったと思う。それまではアメフトが
やりたいという思いだけを優先させていた。言ってしまえば、ろくに仕事もしていなかった2年間
だった。チームがクラブチーム化されてスポンサーが離れるとなったとき、企業チームでなくなる
のであれば、仕事を辞めようと思っていた。いろいろな人に相談したり、話を聞いたりして
いろいろな可能性を探っていた。そんな中、関西の親友に会社を辞める話をしたときだった。
彼は真剣に怒った。「お前は会社からお金をもらっていて、それを返すくらいの働きはしたのか」。
仕事に対する意識を変えてくれたひと言だった。
チームに対しての意識も変えてくれた。それまで、自分が今プレーできているのは企業に
支えられているからという意識が薄かった。自分たちは企業(スポンサー)や周囲の人々に
支えられている。その分を今まで以上にチームや社会に対して何らかの形で返さなければ
ならない、特にプレーで返さなければならないと思うようになった。プレーはそれまでも全力で
やっていたので、これ以上取り組み方を変えるという感覚はあまりなかったが、仕事に対する
姿勢が大きく変わった。例えば、金曜の深夜3時まで働いても、翌日の練習ではパフォーマンスを
出さなければならないと思うようになったし、平日なかなかトレーニングの時間が作れなくても、
1時間だけでも時間が空いたらトレーニングに行って、また戻って仕事するとか。
それまでは100がすべてだと思っていた。アメフトは90で仕事が10。でもこれを機に、
アメフトするときはアメフト100、仕事するときは仕事100、遊ぶときは遊び100。常に全力。
そう考えるようになって人生が楽しくなった。そんなふうに過ごしてきたから、今は休みの日が
気持ち悪いし、何かしていないと死んでしまうと思ってしまう。よく生き急いでいると言われるが、
それでもいい。
■「楽しむ」ための準備も楽しむ
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1年目から常に「楽しむ」という言葉を自分自身にもチームにも投げかけてきた。1年目は自分が「楽しむ」という意識が強かった。でも2年目以降は「楽しむ」といいながら、楽しめていなかった。だから自分に「楽しむ」という言葉を投げかけていたのかもしれない。そして2008年シーズン、再び1年目と同じように主語が自分となったときに「楽しむ」ことができたのかもしれない。
試合で「楽しむ」ためには、事前準備が必要。キツい練習で自分と戦い、その戦いも楽しむ。キツい走りものの練習でも、ただがむしゃらに走るだけ
ではなく、常にフットボールを意識していたし、練習メニューひとつとっても、自分の追い求める
イメージ、理想の絵を常に脳裏に焼き付けていて、そこにたどり着くためにどうしたらいいのか
自答自問を繰り返した。自分の動きをビデオで見て、理想のイメージに全然追いついていない
ことに落胆し、でも昨日より今日が少しでも理想に近づくためには何が足りないのかを具体化して、
それを克服する作業を行う。そんなことを11年、繰り返しやってきた。そして、試合では何も
考えずにフィールドに立つ。でも、未だに自分の理想のイメージには程遠いですけどね。
自分がインターセプトしたり、ボールを奪ったりした時の印象は残っているけど、一番楽しいか
というと、それはまた違う気がする。一番楽しいと感じるのは、みんなの一体感を感じたとき。
だから常にみんなに一体感を意識する声をかけてきた。フィールドでも、ピンチのときや
雰囲気が悪いときこそ、「これを止めたらヒーローだ!」とか「むしろココがチャンスだ!」と
チームメートを鼓舞してきた。その声でみんなの気持ちがひとつになるのを感じた瞬間は
うれしいし、面白かった。例えば、いつかの東京ドームでの鹿島戦、1stダウン残り1ヤード。
フィールドにいた選手全員が絶対に止める、止められる、とひとつになって、実際に3回止めて
フィールドゴールに押さえたときは最高に楽しかった。自分がチームを盛り上げていると
感じているときは、大半がチームは受け身な状態。好きで盛り上げているのではなく、
仕方なく盛り上げているだけだ。一方、一人ひとりが自発的に同じ方向に向いているときは、
勝っていようが負けていようが盛り上がる。例えば2005年のJXBのような雰囲気は、
最高に気持ちよかった。自分も盛り上げる言葉を言ったし、それにみんなが乗ってくれた。
一人ひとりが自発的だったし、それが結果としてつながったいい試合だった。
シーガルズでは、前向きに取り組むことが大事だと学んだ。やるんだったら楽しんで徹底的に
やる。大学の時は、自分に目標を掲げてプレッシャーをかけて追い込んでいた。そこを楽しむ
領域にはたどり着けてなかった。シーガルズでは、どうせやるんだったら楽しんでやろう!と。
以前のキャプテン遠藤さんの「まずやってみようよ」「自分もやるからみんなもやろうよ」という、
自分が主語のスタンスにも大きな影響を受けた。「やれ!」とは決して言わない。そういう
考え方は素晴らしいと思った。絶対に後ろ向きな発言はしないし、やらなければならない
ということも言わない。「男だったらやろう!」と遠藤さんが言ったら、「やってみるか!」という
気持ちになった。素晴らしい人だと思う(酒の場を除く)。
■NPOでの新たなチャレンジ
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これからも、止まってしまったら生きてる意味がなくなるので、動き続ける。数年前からフラッグフットボールのNPO法人を運営しているので、普及にさらに力を入れていこうと考えている。
ひとつは、相模原RISE(旧オンワードオークス)でフラッグフットボールチームを立ち上げて、力になりたいと考えている。僕らが2001年にクラブチーム化したときよりも、彼らはもっとドラスティックに環境が変化した。僕らも当時、選手がスポンサーを集めようと行動したけれど、当時は力がなかった
から何も変えることができなかった。でも、あれから8年が経ち、自分も少しは成長した。 NPO法人の
活動も、ほんの少しずつではあるけれど形になってきている。 その経験を活かして、今は、
少しは力になれるのではないか。新たなチャレンジでもある。先日、相模原RISEの選手たちが
実際どんなことを考えて、どんなことをやっているのか知りたくて、練習を見に行った。彼らは
練習の前後に、ゴミ拾いのボランティア活動をやるので集まってほしいとか、フラッグフットボールの
イベントをするので集まってほしいとか、そういうコミュニケーションが普通にあった。地域に
根ざしたチームを作り、チームをよくしたいという意欲があることを感じた。みんなが同じ方向を
向いて、一人ひとりが主体的に関わっている。そんな彼らの力になりたい。
■押しつける気は全くないけれど
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今いる選手やスタッフが、新しいオービックシーガルズの文化やよさを創っていくんだと思うから、
これからのチームへの期待をひと言で言うのは難しい。取り巻く環境は変化していくけれど、
今まで大事にしてきた「強く、愛される、開かれたチーム」というスピリットは忘れてほしくないな
とは思う。ファンや地域の皆さんに愛されるチーム、選手であり続けてほしいし、一社会人としても、
プライドを持てる人間であってほしい。まあ、押しつける気は全くないけどね。このチームは
絶対に存在し続けてほしいとみんなが思ってくれるチームであり続けてほしいと思うし、そういう
チームをみんなで創っていってくれることを期待しています。 (談)
11年間、同じフィールドで戦いながら、彼の葛藤に気付くことはなかった。ずっとプレッシャーを内に秘めていたのだろう。弱みを見せない彼らしいとも思った。常にチーム視点で全体を見渡す発言、行動はまさにフリーセーフティ。生き方も、考え方もオービックシーガルズのFSというポジションが彼に一番ふさわしい。これからの人生も「楽しむ」を求めて止まることなく進んでいくのだろう。11年間、寺田のおかげで攻めることができました。ありがとう。これからもよろしく。 |
2009年04月27日
走る理由 27歳-杉原雅俊
昨年末解散したオンワードオークスから移籍してきた杉原。
春先、走り中心の練習で常に先頭を走っていた。
競争相手がいない中、彼は何を見て走っているのか-。
それを確かめたくて、話を聞いてみた。
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昨シーズンはリターナーでオールXリーグに選出。これから日本を代表する選手へと成長していくであろう、順風満帆な選手生活に突然降ってきた所属チームの廃部。 愛着のあるチームに残るか、自身の成長をとるか。悩まないわけがない。
2月のオービックシーガルズ恒例の走りもの練習。今季も吉永トレーナーが厳しいメニューを作ってくれた。いつもと同じ厳しい練習に、楽しく激しく取り組む選手たち。そして常にその先頭を走るのが、杉原だった。
「実は走りものは好きじゃない。前のチームでは一発屋と言われてましたし。
1本目は速いけど、2本目からは全然ダメ……」
しかし、何本走っても杉原は1番手を譲らない。それに触発されてか、古谷(拓)、
清水が後を追う。自然とチーム内に競争が生まれてくる。
「古谷さんがいるからオービックシーガルズに来ました。
日本のエースRBを抜いて日本一のRBになって、日本一のチームになる」
2007年のワールドカップ。
日本代表の選考に名を連ねた杉原は、その練習でもアピールしていた。
コーチを捕まえ貪欲に教えを請い、練習が終わっても最後まで残っていた。
向上心の強い選手という印象が残っている。だからこそ、今回の移籍の理由を聞いた
ときに納得した。
「今、とても楽しいんです。今まで自分でも知らなかった能力が開発されているのを
実感しているし、これからオレ、どうなっていくんだろうと考えると楽しい。
自分には走ることしか能がない。それが分かっているから、走ることだけは
誰にも譲らないって気持ちで走ってます」
主将の古庄さえも、杉原の運動能力に一目を置く。「杉原が入ったことでチームに新しい
競争が生まれた。オービックシーガルズにとっても、杉原にとってもいい移籍だと思う」(古庄)
もうひとつ、彼にはここで走る理由がある。
それは「相模原ライズ」(*)の元チームメートへの想いだ。
(*相模原ライズ:オンワードが解散後、在籍選手を中心に立ち上げた新チーム。
今季X3からスタート、早ければ2年後にX1に昇格の可能性がある)
「お世話になったチームだし、愛着もある。いろいろな人に必要とされ、とてもうれしかった。
だからこそ、今回の決断を応援してもらえるように、ここで結果を残さなければならない。
オービックに行ってダメになったとは絶対に言われたくない。そして3年後のシーズン、
同じフィールドで彼らと戦うときには、徹底的に叩きのめしてやりたい」
「叩きのめしてやりたい」-この言葉だけを拾ったら、「なんて奴だ」と思われるかもしれない。
でも、このインタビューを相模原ライズの元チームメートが読んだら、きっと、少し笑って
「あいつにだけは負けない」と思うだろう。お互い、再会を心から楽しみにしているのは、
間違いない。
プライドも捨て、泥にまみれ、素直に教えを請い、できないことをむしろ楽しんで取り組んでいる。
すべてが自分の成長への糧となることを知っているから。
今、オービックシーガルズにいる理由が、杉原の成長を加速させている。
背番号21が5月5日にフィールドを所狭しと走り回る光景が目に浮かぶ。
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RB#21 杉原雅俊(すぎはらまさとし) /175cm、80kg、27歳。昨シーズンまでオンワードオークスに所属。日本屈指のスピードを誇るRB兼RET(リターナー)。2008シーズンはキックオフリターンで平均38.2ヤード、2TDと驚異的な走りをみせ、オールXリーグに選出された。犬のような走りをすることからニックネームは「ジョン」。RB#20古谷拓也、RET#83清水とのチーム内でのエース争いも必至。即戦力としての活躍が期待される。 |
2009年04月20日
最強の2番手-金子敦
今シーズン、DBコーチとして日本一を目指すことになりました、玉ノ井です。
このブログでは、毎回ひとりの選手にフォーカスして、普段なかなか伝わらない彼らの
内側を紹介していきます。
初回は、昨シーズン限りで引退した金子 敦選手。
1999年から10年間、DBとして活躍。私にとっては、10年間、同じフィールドで戦った仲間
でもあります。チームのムードメーカーとして一目を置かれ、前向きな言葉を投げ続けた姿が
印象に残っています。そんな金子選手が現役中には誰にも話さなかったことを最後にご紹介
したいと思います。
-------- INTERVIEW --------------------------------------------------------------
■しんどいときこそ笑っていたい
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オービックシーガルズとの出会いは、母校・筑波大の練習にコーチの柳さん(現富士通コーチ)とOBの関口さんが来てくれて、「一度、練習に来いよ」と声をかけてくれたことがきっかけでした。
当時の筑波大は、一生懸命練習はしていましたが、なかなか勝てなくて、練習に悲壮感というか、重たい感じがしていました。そんな中、シーガルズの練習に参加してみると、 底抜けに明るくて、激しく、みんな主体的。やりたくてやっている。そんな雰囲気がいいなと思いました。最後の走りもののメニューはとてもしんどいものでしたが、それを楽しんでやっているのを目の当たりにして、本当に大人げないというか、子供のように見えたんです。
その時、中学の部活の顧問の先生が言っていた言葉を思い出しました。
「しんどいときに、しんどい顔を見せずに上を向いて笑っている奴が、本当に強い男なんだ」。
シーガルズの選手たちはまさにそれ。僕も練習中、その言葉を大切に意識してやっていたので、
自分が大切にしていることと同じことを大切にしている人たちだ、とつながったんです。
大学では自分自身は楽しんでいたし、先頭に立って声を出して走っていましたが、周りとは
その部分で高め合うことはできていませんでした。大学まででアメフトをは辞めようと思って
いましたが、シーガルズの試合を観ると、まさにあの練習の通り、楽しく激しく、活き活きと
プレーしていて、僕も「勝ちたい」と思った。報われたい、とも思いました。それまで、
頑張っても結果が出てなかったのもあるし、もっとできるとも思って、入部を決めました。
■オレはFSを動かしている……?!
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実際入ってみると、予想通りのこともありましたが、予想以上のことが多かった。
そのひとつが、レベルが高さです。
自分の得意なオープンプレーでRBを思いっきりタックルしにいったところ、スピードで
かわされました。でもその時、先輩RBに「なかなかいいプレーだよ」と言ってもらえたんです。
そういう高いレベルで声をかけ合えることが気持ちよかった。
また、同期のたっくん(RB#20古谷)は、「オレはFSを動かしているんだ」と言う。大学の時、
自分は、RBの視界にFSは入っていない、と思っていたんです。だから、その死角から
思いっきりタックルを狙っていたのですが、たっくんはLBの後ろのFSまで視野に入っていて、
それを動かすことまで考えている。そんなこと考えているのか!とレベルの高さを感じました。
■獲りにいったMVP
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10年の選手生活には、2つのターニングポイントがありました。
悪い方のターニングポイントは、1年目の夏合宿前に鎖骨を折る怪我をしたこと。1年間何もできず、シーズン最後の試合となったFINAL6の鹿島戦はベンチに入れず、スタンドから見ていました。大学4年で2部に落ちたときに、「これだけやってきたのに結果が残せず、オレは何をしてきたのだろう」と自暴自棄になったときを思い出しました。そのときのネガティブな自分を変えようと思ってシーガルズに入ったにもかかわらず、同じことを繰り返していると気づきました。オレはこんな思いをするために入ったんじゃない。生まれ変わろうと思ったんです。来年はやってやろう、
そこからすべてを変えてやろう、と。
もうひとつのターニングポイントは、2003年の夏合宿でMVPをもらったことです。
夏合宿に入る前から、絶対にMVPを取ると公言していました。その夏の合宿は、寺田さんが
怪我で遅れて参加することがわかっていました。僕は寺田さんの2番手だったから、
寺田さんがいないと出場機会は増えるんです。でも、寺田さんがいないから出られるんだと
思われるのがすごく嫌だった。確固たる地位と評価を持って、実力で出ていることを
証明したかった。認められたかったんです。
その結果、いい結果を残して、選手の投票で決まる夏合宿MVPをもらいました。
MVPは大橋ヘッドコーチから表彰されるのですが、そのときに泣けたんです。生まれてきて、
一番うれしい賞でしたね。賞品としてサプリメントの商品券をもらったのですが、
それが入っていた袋を1年間、見えるところに貼ってました。
その年はゲームMVPを2回、シーズン最後に表彰されるチームMIP(MOST IMPLOVE
PERSON:最も成長した選手)も、遅いんですけれど受賞しました。今振り返ると、
一番成長できたシーズンでした。自分がワンステージ上がったきっかけでもありました。
■相手の一番大事なボールを奪う
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試合の中では、2005年のJAPAN X BOWLが一番印象に残っています。
負けていた試合で、自分自身はすごいプレーをしたわけではないのですが、チームに
一体感があって、負ける気がしなかった。このチームでは、負けると思った試合ってないんです。
あのときも絶対に行けるって、フィールドに立つ選手も、サイドラインにいる選手も全員、
勝つと思っていた。それが最高に気持ちよかった。
いいコールを出してもらって、最後、ファンブルフォースもできて、最高でした。
ファンブルフォースにはこだわりがありました。相手の一番大事なボールを奪うことが
気持ちよかった。タックルより、インターセプトより、ボールを奪うことに一番執着していました。
プレーしていてボールが見えるんです。あのときも冷静に、こうすればボールが奪えるんじゃないか
と考えながらボールにアタックしていました。
■自分の存在意義を問い続けた
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元々、ポジティブな面はありながら、それを表に出すことに自信が持てない環境にいたんですが、
それを受け入れてくれたのが、オービックシーガルズでした。一人ひとりがやりたいことを楽しみ
ながら実現していって、それがひとつの力となって結果を出すというのがシーガルズのすごく
いいところ。一目置ける、こういうところがすごいと思い得る人がたくさんいました。
そういう人たちと一緒にいて影響を受け、自分も自分らしくありたいと思うようになりました。
また、シーガルズは、自分の存在意義を考えさせられる場でもありました。
あいつ、いてもいなくても変わらないなという存在だと、ここにいる意味がない。
あいつがいないとなんか足りないなと思える存在でありたかった。
僕でいくと、「声を出し続ける。プレーでも目立つ。」。
それができなくなったら辞めよう、先頭を切って走れなくなったら別のステージで発信して
いこうと思っていました。この2年ぐらいは、足の怪我もあって、先頭に立つことが思うように
できなくなっていました。
■自分らしく生きることを応援したい
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自分らしく生きることが自分のテーマであり、他人にも、もっとそうした方がいいんじゃない?と思うテーマでもあります。日本人は我慢しがちだけど、自分の時間、余暇、人生を、自分がしたいように伸び伸び生きられたら、それは最高だと思う。極論ですが、本能のままにみんなが生きられたら、なんて幸せだろうと。
我慢したまま死ぬこともあるじゃないですか。やるほうを選択していける人生をサポートしたり、場を提供したい。そんなことを考えています。小さい頃から思っていたんですけど、みんなが遊びに来られるリゾートを創りたい。働きすぎて何か大切なものを見失っている人が、ここに遊びに来ることで自分を見直すきっかけになるような場にしたいです。
夢を追い続けるアスリートも応援したいと思っています。
シーガルズの「出る杭は打たない」というスタンスが、 自分らしくポジティブに生きたいという
自分の潜在意識を引き出してくれたのだと思います。いい部分を伸ばしてくれた。
出る杭を、むしろ、応援してくれるみたいなところもありましたし。
■感動を与え続けるチームであれ
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オービックシーガルズは、もっと世の中に認知されてほしいと思います。
うぬぼれかもしれませんが、シーガルズはプロよりもプロフェッショナルな人材が集まって
いると思います。 プロ選手よりも、走り込みも追い込んでいるし、仕事も頑張っている。
チームを構成している一人ひとりに意志があり、想いがある。周りからは“楽しんでいる”
という一部分が“軽い”と思われがちかもしれませんが、本当はストイックで、真剣にひとつの
目標に 向かって頑張っている。プロよりも影響力のある存在だと思うし、こんなに面白い、
世の中にインパクトを与えられるチームがここにあるってことを知らしめたい。
一生懸命やっている姿、最後まであきらめない姿勢は感動を与えます。
これからも、感動を与え続けるチーム、世の中に影響を与えられるチームであり続けて
ほしいですね。 (談)
彼の10年間の選手人生は順風満帆ではありませんでした。
FS寺田、R里見などスタート選手の2番手のローテーションの中、常に向上心を絶やさずスターターを求め、 自分をアピールし続けた結果、スターター選手と同等の信頼を勝ち得、ゲームをブレークする存在にまでなりました。「しんどい顔」を本当に見せなかった。その背景には彼を支える言葉があったことを、この取材で始めて知りました。 これからの人生も、きっと「しんどい顔」を見せずに、ポジティブに進んでいくのだと思います。10年間ありがとう。これからもよろしく。 |